第9章 姉妹連

昭和三十年代から五十年代にかけて、私達が知る範囲での、徳島を代表する踊り手といえば「葵連」の小野正己氏、 「新のんき連」の姓億政明氏、「みやび連」の武市伶子氏、そして「娯茶平」の四宮生重郎氏であろう。そして、それらの方々が名人と称される所以は、それぞれに強烈な個性を持っていることと、表現手法に独自の境地を開き、確信をもって我が道を往くところにあると思う。この四人の内、小野氏は、葵新連の関係から、四十二年以後度々高円寺に来演、なじみになっていたけれども、それ以外の方は末だ来演されたことがなかった。

私達は、四名人の内、最も真摯な態度で阿波おどりに取り組み、正調一本槍、 息づまるような踊りを展開する四宮氏を、いつの日にか高円寺に迎えたいと願っていた。

飛鳥連のためというよりも、高円寺のため、高円寺のお客様のために「阿波おどりの神随」を見せたかったのである。四宮氏は多忙な人である。「のり万商事」の社長としての本業はもとより、公的な仕事もあり、その上、踊りシーズン中はフル回転、今迄、何回かお願いしてきたのだか、なかなか実現しなかった。しかし、前年、正式に姉妹連になった事情もあって、この年遂に高円寺来演か決まった。八月二十七日午後、四宮氏は、堂久保、三木両副連長、三味線の市川氏と共に高円寺着。夕方迄、富沢君宅の二階でお休み願うことにした。三時過ぎ飛鳥連は恒例のデモンストレーションを行なった。パル商店街をパレード、最後に高円寺駅頭で賑やかに円陣を組んだ。男女交替で踊っていると、いつの間にか四宮氏が現れ、やがて円陣の中に入り、さっそうと踊り始めたものだ。四宮氏が踊り込むと、飛鳥の踊り手達は、いっせいに掛声を変えた。

「踊りは娯茶平、娯茶平の踊りだ、ヤットサ、ヤットサ」

今、四宮氏が高円寺で踊っている。夢にまでみた、そのシーンが眼前で展開している。

格調高い、きびしい踊り、こういう踊りを恐らく高円寺の人達は初めてみたのではあるまいか。

飛鳥をやってよかった。思えば長い道程であった。感動が、私の全身を走り、熱いものかこみ上げてくる感無量のひとときであった。

四宮連長の来演は、私自身にも大いなる変革をもたらした。私は高円寺阿波おどり創成期の数年間踊りをやったのだが、木場連の鴨川氏の指導を受けてから鳴り物(鉦)に転向、飛鳥連設立当初も鉦をたたいたり、或いはリーダーをつとめたりで、踊りは十年位やっていなかった。最近は、あまり見られなくなったが、五十二年当時は、大会規定によって各連はリーダーを定め、連の先頭を歩き、指揮監督に当ることが決められていた。

リーダーは、「連長」と書いたタスキをかけ、運行巡路を記した運行表、メガホン又はハンドマイクを持つというものものしい出立ちであった。

この年も例によって私は、リーダーとして歩いていたのだが、お客様である四宮連長以下娯茶平の人達が、一生懸命やっているのに私がブラブラ歩いているというのは、どうにも具合が悪く、気の引けることであった。

「どうでも踊らねばならぬ!」というのは、鉦は若手の塩沢君か急成長していて事実上鳴物のリーダーを勤めるようになっていたし、小林副連長も鉦のべテランである。鳴物の分野では、既に私の出る幕はない、鳴物か駄目なら踊りしかない。

元々飛鳥連は、男の踊り手が不足しているのだから、上手下手は問うなかれ、とにかく来年は踊ってみせると覚悟をきめた。生来私はテレ屋だから、人前で、自信のない踊りをやるのは大変な勇気がいる。だが連長たるもの、やらねばならぬと言いきかせ、以来佐野君に指導を受けたり、深夜、ひそかに踊ってみたり、或は、高円寺以外の場で短時間踊ったりしながら、少しづつ勉強を重ね、不器用ながらも、人前で踊ることが苦にならないまでになった次第。

普通は、若い時代に踊りをやり、年をとってから鳴物へ行くものだと思うが、私の場合逆をやっている。だから一向に上達しない。基本を一歩も出ないのだか、そんな不器用な踊り手が一人位いたっていいじゃないかと、自分自身納得し、体力の限界がくるまで、やるつもりなのである。

越えて五十三年五月徳島から久米真弓さんが上京した。娯茶平女子のトップクラスの踊り手である。殆んど毎年椿山荘へ来ていたから私も顔だけは知っていた。東京の親戚、住み込んで、和裁の勉強をするのが目的とのことで、少くとも一年、場合によってはもっと長期間在京することになるとの話であった。上京したら、必ず高円寺へ顔を出すように連長から言われて来たそうである。

在京中は、飛鳥連の客員として、殆んどすべての踊りに参加してもらったし、練習では明日の飛鳥を担う中堅どころの指導に当ってもらった。久米さんの踊りの影響を最も強く受けたのは、当時中学一年生だった福井徳子さんではなかったかと思う。一時的に踊りに迷いがみられ、やや粗い面が出た時期があったが、昨今の彼女は、手を高く上げ肩(腰)の入った。タイナミックな踊りをしている。余裕と自信に満ちている。

余談だが、この頃から五十五年にかけて幾多の有望なメンバーが成長し、或は新加入している。前記の福井さんを初め、井上千佳子さん、吉田柴織さん、大場由貴さん、更に堀越佐紀子さん、神田恵美子さん等の「松の木中グループ」それに村西美保さん、笹川尚美さん、小駒弥生さん等々である。一方男子では、久保田さん兄弟、篠原良隆さん、寺門二郎さん、佐藤久雄さん、井上康夫さん、大沢正一さん等々、遠くは青梅、八王子から、神田、渋谷、高田馬場といった高円寺以外から参加の熱意ある社会人グループである。

久米さんは、なかなかはっきりものを言う人だった。いつだったか、こんな事を言ったのを記憶している。

「高円寺へ来るまでは、幹部(娯茶平の)の人達が、何かというと高円寺に負けるぞ高円寺、高円寺というのに反撥を感じていた。阿波おどりは、私達のもの、東京の人に踊れるハズがない。そんな自負と誇りをもっていた、ところが上京して初めて飛鳥連の練習に出てみて考えが変った。高円寺は本気でやっている。それがよく判った。頑張らなくちゃいけない。阿波おどりという以上、本物をやってもらいたいから私も一生懸命やります。だけど徳島が負けるのは困るし、ちょっと複雑な心境です」と、

積極的な彼女は、徳島では絶対に歌わない「よしこの」を、高円寺の本番と八王子で披露してくれた。吉田光余さん(娯茶平の歌担当でレコードやテープに吹き込んでいる名手)に教わったという久米さんの「よしこの」は、光余さんには及はぬまでも、なかなかの美声でムード盛り上げに効果的であった。

その年十月二十二日、全国郷土祭か、国立競技場で盛大に行われた。早朝からタ刻まで天皇陛下ご臨席の上、超満員の観衆の前で、数々の郷土芸能が繰り展げられた。勿論徳島からは、選抜一七〇名の阿波おどりか上京、娯茶平からは、福田会長、四宮連長以下五名程が加わっていた。

高円寺勢は約六〇〇名、この内女子16男子9、鳴物5、計三十名の選抜メンバーが昼の部に参加、徳島勢と共に「天覧踊り」を展開したのであった。夕刻には徳島一七〇、高円寺六〇〇計八〇〇名が競技場を埋め青森の「ねぶた」と共にフィナーレをかざった。飛鳥連は、三十七名が参加しそのうち、女子選抜に5名、鳴物に1名を送り込んでいる。

当初の計画では、昼は徳島のみ、夕刻高円寺参加となっていたのだが、当時の連協会代表の中村和男君の尽力により、徳島側の理解を得て昼の部にも参加できたのである。

これは中村君の大きな功績であり、又、それを受け入れてくれた、徳島県阿波おどり協会小寺副会長はじめ幹部の方々の高円寺に対する評価が定ってきた結果だと思う。

五十四年は、いろいろな意味で忘れられぬ年になった。四月、高円寺パルにアーケード完成、このオープニングに参加。六月、ワールドカップ世界体操選手権大会開会式に参加。又、普門館ホールで行われた世界産婦人科学会の「ジャパンナイト」に板東玉三郎等と共に出演したり多彩な一年であった。

しかし、何といっても私達にとって大きな出来事は、堂久保哲男氏の死であった。堂久保さんが。二年程前から健康を害し、療養につとめていることは私私達も知っていた。入院もしたようであるか、退院後は節制につとめ、昨年あたりから勤務にもついていると聞いていた。現に、この一月には公務出張で上京され私達と一緒に食事をしている。もともと酒好きの堂久保さんが、全くアルコールを断ち復調につとめている姿に、私達は、これならば、今年の盆踊りには以前と変らず、元気に締ダイコをたたいてくれると思っていた。

だから、六月十八日夜、三木副連長からの死去の報せに私は耳をうたがった。三木氏の電話では「今日通夜があり、明日告別式、高円寺に知らせるかどうか迷ったけれど、いづれ判ることだから、知らせることにした」そういう趣旨であった。

翌早朝、私は、谷、富沢両副連長と共に徳島へ向かった。予約も何もないけれど何とかなろうと羽田へ、うまく大阪経由で飛行機がとれ、午前十一時徳島着、早速四宮連長宅へ伺い いっしょに告別式に参列することが出来た。私共が今日あるは、娯茶平のご指導のおかげ、その娯茶平と、今の様な関係を結ぶに至るきっかけ、その後の経過の中で堂久保さんの果した役割は、誠にもって恩人と言う以外言い表わしようのないものである。永遠の別離は寂しく、又悲しいものであった。

こころに残る話を聞いた。堂久保さんには二人の娘さんがいて、二人共踊りをやっていなかった。ところが姉さんの方か、今年から娯茶平に入り練習をしていると言うのだ。生前堂久保さんは、「私の娘は娯茶平にははめぬ、親子の関係があると、どうしても甘えが出るし駄目だ。私が引退すれば話は別だが・・・」そんなことを言っていたから、もしかしたら、堂久保さんは、自分の限界を悟って娘さんを踊らせることにしたのかも知れなかった。

「父に替って一生懸命やります。よろしくお願いします・・・」娘さんの言葉を、私は大きな感動をもって聞いた。

八月、高円寺の本番に、私達は徳島から大勢のお客様を迎えた。四宮連長以下幹部数名、チビッ子十八名、その付添のお母さん数名、併せて三十人位であったろうか、特筆すべきは、チビッ子達は、積立てをやっての自費参加である。いかにチビッ子とはいえ徳島の場合、県外の踊りに自費参加というのは殆んど例がないのではなかろうか。

高円寺には、その価値があるとの幹部の判断があったとすれば、大変に有難いことだし名誉なことでもある。二十七日午後高円寺着。その夜、踊り、二十八日昼間は、新宿超高層ビル街で写真撮影のための踊り、NHKを見学して高円寺に戻り夜踊り、二十九日は早朝出発上野動物園でパンダを見物してから帰路につくという、チビッ子達にはかなりきついスケジュールであった。二十九日、私達はせめてものお礼としてマイクロバスで送ることにし、上野動物園経由、羽田迄土橋氏がハンドルを握ったのであった。

「チビッ子娯茶平」私の記憶によれば、三年位前に創設され、行き届いた指導により、既に徳島では絶対の人気を得ている。

高円寺でもそうだが、チビッ子というのは従来、可愛らしさだけが売ものとの印象が強い、だが「チビッ子娯茶平」はその常識を打ち破り、技術面の充実が著しい。踊り出しの構え、まるで一〇〇メートル競走のスタートの如く精悍である。大人連顔負けのハツラツとした動きは、目を瞠るものかある。

一度、高円寺に来てもらい、高円寺の子供連に刺戟を与えて欲しいと考えていた。そのことが実現し、私は本当に嬉しかった。

この時の経験から、私達は、わが連も、もう一度原点に立ち返り、優れたチビッ子グループを育てたいと、密かに考えることになる。