第8章 明日への道程

昭和五十一年は娯茶平と正式に姉妹連となった記念すべき年であったが、その他にも忘れられぬ思い出がある。

そのひとつ、佐野和史君の加入である。佐野君は、当時東京の不動建設(株)に勤務の青年技術者で、いつも端正な身だしなみと、キリッとした男前で、女子部の連中にも人気があった。徳島出身で、高校時代娯茶平で踊り、大学在学中は帰省すると踊っていたようである。娯茶平踊りの基本をみっちり仕込まれていて、ねばりのあるスローテンポの踊りを得意としていた。佐野君が加入したのは、堂久保さんと吉田昌代さんの紹介による。

当時の飛鳥連は、女子は、吉田さんの指導が実って、かなり腕を上げていたが、男子は適切な指導者がいなく、大分遅れていたから私達は、佐野君に男子の指導をまかせることにした。佐野君は、私達の期待通り、一生懸命やってくれた。彼の指導を受けて大きく伸びた者に、清水智仁君、原田靖彦君がいる。

今の飛鳥の男踊り、明らかに他の連と違ったものを持っているが、それはこの時代に生まれたものだと思う。私も何回か佐野君のコーチを受けたものだ。

佐野くんの考えは、「俗受けを考えない方がいい。少々地味でも心に残る踊りを心がけた方がよい。」

この考え方に私も同感であった。一般的にいって、どの連も一応踊れるようになると次のステップとして大衆受けをねらうことが多い、おもしろおかしい仕草を入れたり、あっと驚くような、ケレンの多い演技である。それもいいだろう。しかし、まっとうな踊りが不充分な内に、こうした方向に走るのは危険なことだ。だが現実は、そのような動きをする連がふえつつある。そういう中で、正調踊り一筋の連があってもよいではないか、むしろその方か印象に残り、深い感銘を与えることになるのではないか。現に女子踊りは、ひとりひとりの上手下手とは別に、一種の品格を感じさせるまでに成長しているのだから、男子踊りも、そういうムードに持ってゆくことが大切だと考えたのである。男子踊りは自由奔放、ダイナミックに踊るのがよいのだが、それか踊りである以上、粗野になってはいけない。やはり踊りの持つ優雅な美しさを感じさせるものでなくてはいけない。それか今も変らぬ私の持論であるが、それを表現するには、急テンポはなじまないのではないかと思う。

やや、ゆっくりしたテンポで、腕を流れるように振る、その次にくる一瞬の静止で決める。この「流す」「決める」その時の手先のしなやかな動き、これが踊の表情というものだ。この本質は、男も女も同じだと私は考えている。勿論長時間を踊る時は、多少緩急の変化をつけないと踊り子もつまらないし、疲れも早く出るから、急テンポを入れることもある。しかし概して飛鳥連の鳴物はスローテンポである。パンチに欠けるという批判もあるが、少くとも急テンポのバタバタした踊りよりは、よいと思っている。

このような私の確信は、当時の佐野君の考えに大きな影響を受けている。

もうひとつの話題はテレビである。「クイズ、ドレミファドン」「夜のヒットスタジオ」両方共、 フジTVの看板とも言える高視聴率の長寿番組である。

特に「夜のヒットスタジオ」は、歌番組としては最高の評価を受けていた、何とかいう歌手の何とかいう歌(人気歌手ではなかったので失念した)のバックをつけたのだが幻想的な美しい構成だったという。生放送の為、私達は見ることか出来なかったか、見た人に大変ほめられたことを覚えている。

この時の苦心は歌のテンポはスローなのに踊りはハイテンポを要求されたところにある。

スタジオいっぱいにひびくオーケストラのスローテンポに、踊りがつられてしまう。歌の三倍位の動きがほしいというのが演出家の注文であった。

リハーサルで踊りのテンポを決めるために、「ヤットサー、ヤットヤット」の掛声を沖田、高島両リーダーの発声で、何回も何回も繰返し、全員がそのテンポを頭のなかにたたき込んだ。この時の、この二人の発声リードは城に立派だった。今でも、その声が聞えてくる程に印象に残る一駒であった。

こうして五十一年を送り、五十二年を迎える。この年は非常に話題が多いので、それぞれを簡略に述べることにする。

その一 女子衣裳を全面的に改めた。初めてテトロンを使用、帯その他の附属品も新調した。デザインは娯茶平と殆ど同じにし、姉妹連ムードを強調した。その前年、福田会長デザインによる男子用紺ハッピを作っているから、全体的ムードも娯茶平に非常に近いものになった。

この新しい女子衣裳は、三月三十一日、石川さゆりさん出演による文化放送みどりの箱キャンペーンが高円寺で行われた際、特別出演したステージで発表した。

その二  飛鳥連主催の第二回徳島旅行を実施した。四十九年に第一回を行い、それ以来、私達役員は、毎年徳島訪問を続けてきたが、今回は、姉妹連になった翌年で、しかも、衣裳も整ったということで、何となく気連が高まり、幹部、リーダー十六名をもってこれを行った。往復飛行機利用の豪華版である。

徳島では、昼間、単独で、新町のアーケード商店街を流し、夜は娯茶平に組込んでもらった。昼の踊りには、二年前に学校を卒業し名古屋の中学校に奉職していた吉田昌代さんが丁度、帰省中だったとのことで馳せつけて何かと世話を焼いてくれたし、四宮連長か、知り合いのお店の前にジュースを用意したり、細い心遣いをしてくださったものだ。

その三 高円寺阿波おどりポスターのモデルに、この年初めて飛鳥連が選ばれた。製作者側からの要請は、女子五〜六人とのことだったので、ベテラン六名をスタジオへ同道した。位置ぎめ等は、カメラマンに一任したのだが、メインになったのは高島さんである。笑顔がカメラマンのイメージに合ったらしい。

「笑って、もっと明るく・・・」と言われて彼女大変に困っていた。実は彼女に笑えというのは少々酷な注文だったのだ。撮影の日の二十日程前、彼女は父を失っている。予期しない急死であったそうだ。心の動揺も大きかったに違いない。そんな彼女を、私は「今年は踊るのは無理だろう」と案じていたのだが、撮影の日出て来てくれて、本当に嬉しかった。私にも経験があるが、肉親を亡くしたことは悲しい出来事に違いない。しかし一日も早くショックから立直ってもらいたい、そのために踊りか何かの役に立てばとの思いがあったからだ。阿波おどりは元来盆踊りだから、御霊を慰める意味もある。

彼女は立派に耐えた、徳島にも予定通り参加した。

後日、出来上ったポスターを見ながら、私は彼女の心境を思うと共に、その根性に改めて感心したのだった。

その四 この年、土橋堅氏が加入した。高円寺の大会には地元の企業連が多数参加しているが、土橋氏は三井銀行次長として数年前、高円寺支店へ赴任されると共に、銀行連の笛を担当したのだった。ここで阿波おどりの魅力にとりつかれたらしい。この年の人事異動で高円寺支店を去ると同時に阿波おどりの奥義を極めんとの意気込みで飛鳥連へ加入したのである。その意気込み通り大変熱心であった。この熱心さの故に、そして又、この頃からふえ出した高円寺以外の地域からのメンバーの代表格として、翌五十三年に副連長に就任、数々の功績を残しつつ今日に至っている。

その五 板橋けやき連の指導が始まった。板橋区内では、数年以前から、ところどころで、阿波おどりが行われていた。それは多分、東京信用金庫の関係ではないかと思う。東信は、理事長が徳島市出身とのことで、社員も県人か多くいたから、社内で連をつくり、各支店所在地の祭礼行事に、地域サービスの目的で踊っていたらしい。娯茶平がゲストとして招かれたこともある。これに刺戟されたものか、他の金融機関も連を出したり住民が参加しているところもあったようである。

板橋区では、区民のふるさと意識を育てる意味で、都民の日に区民まつりを行っていたが、区内で散発的に行われている阿波おどりを前夜祭に招き、競演させることを企画した。

区が呼びかけるには、ます区の職員が率先してこれに取り組む姿勢が必要とのことで職員有志による連を結成、これを「けやき連」と名付け、その技術指導を飛鳥連に求めてきた。

私達は頼まれた以上、しっかりした指導をしたい、もしかしたら将来私共と姉妹連のような関係に発展する可能性もあろう、そんな気持で取り組んだつもりである。幸い、今のけやき連は、正調一本槍、大変真面目な態度で踊っている。飛鳥のムードに似ている。この姿勢を崩すことなく、末永くお付き合いしたいと願っている。

以上、五十二年のいくつかのことがらを紹介して来たが、実は私にとって、この年最大の思い出は、四宮生重郎連長の高円寺初来演である。これについては、次の章で詳しく述べたいと思う。