第7章 発展を目指して

四十八年秋から四十九年夏まで行われた定例勉強会、それに続く徳島旅行で、飛鳥連は着実に成長した。勿論踊りも未完成だったし、衣裳なども充分整っているとはいえず外見は、未だ二流連である。

しかし子供達が自分の踊りに自信を持ち始めたこと、自分の連に誇りを持ち始めたことが、何となく私達に判ってきた。

従来の飛鳥連は、天狗連や葵新連等、先輩連にいわれなきコンプレックスを感じている風があったが、この年を境にして、我が道を往く気風が生まれてきたように思う。その理由としては、娯茶平の指導を受けたことの他に、踊りリーダーの交替があげられる。

結成以来、踊り子達をリードしてきたのは、のびゆく連出身者の中の年長グルー プ十人位であって、この内男子は殆んど鳴物へ廻ったから、問題は女子にあった。一応踊れるということで、私達が甘やかしたせいもあると思うが、ややもすると「踊ってやる・・・」意識が出、指示に従わないこともあり、私もたった一度だか、本番中退場を命じたことがあったりした。その子達は、定例会に殆んど出席しなかった。事情もあったと思うが、やはり今更勉強会なんか、というなめた気持が多かったのではないだろうか。勿論、徳島にも参加していない。

四十九年本番間近、私は、そのグループの代表格の者を呼んだ。

「ちっとも出てこないけど、今年はどうする。勉強会に出ていなくても、今からちょっとやれば大丈夫、もともと踊れるんだから配ないよ・・・」

「でも踊りが大部変ったらしいし、皆、上手くなったんでしよう。〇〇さんも出ないっていっているし、だから私も今年は見ることにします。」

彼女達の踊りは、先輩連の踊りをコピーしたものだから、娯茶平流の踊りに自信が持てないのだ。

「それもいいだろう。でも来年は是非出てよ」ということになってリーダー格がゴソッと抜けた。

張切ったのは、定例会でみっちり仕込まれた二線級の踊り手である。この子達は、 小学六年から中学二年生位だったから、踊り歴がやや少ない。二、三人を除いて飛鳥連に人って始めて踊ったという者が多いから、先輩連に対するコンプレックスも持っていない。チームワークもよく、交替でトップを勤めるという譲り合う気持もあった。事実その年の女子踊りは未熟ながら、なかなかよいムードを見せたものだ。

譲り合う、思いやるという気持、これは大事なことだ。誰だって或る程度うまくなればいい位置で踊りたい。しかし編成上の都合があるから、わがままは通らない。そこを心得てうまく計らうのが、よきリーダーだと思う。

この心掛けは、現在も継承されているように思うし、これからも続けてほしいと思っている。

先にちょっと触れたが、この年初めて娯茶平から福田連長と堂久保、酒井の両氏が来演した。中央演舞場出発点で、出番待ちの時、連長が、

「ほほう、待つんですか、恐れ入りました・・・と言ったのを覚えている。恐らく、高円寺が盛んだとはいっても、これ程とは考えていなかったのだと思う。高円寺を認識して貰えたことで、来てもらってよかったと思った。

堂久保さんの指導は、かなり厳しかった。こちらの鳴物か少しでも狂うと、自分のバチで相手のバチをハネ上げる。

「こわかったぁ・・・」と今でも鳴物の連中が述懐する。しかし、そのお蔭で、飛鳥連の鳴物は、急速に腕を上げる。

翌五十年は、娯茶平の指導も一段と力が入る。多分、堂久保さんの配慮によるものと思うが、都内各所で、飛鳥の踊り手を娯茶平の中に組み込んでの実施訓練か試みられた。この年には、七月二十九日から八月四日まで椿山荘、九月十三日池袋、十四日東長崎と、娯茶平一行が来演しているか、 このすべてに飛鳥の女子数名を組込んでくれた。五十一年にも、椿山荘、志村等で勉強の機会を作ってくれた。

正直いって、本場の優秀な踊り手の中に、二〜三人がまじって踊るというのは本人にとってきついことである。見知らぬ者ばかりで気を使うし、何と言っても踊りのうまさが違うのだから楽しい訳がない。それが判るから、私達役員もいっしょに随行する。彼女達の精いっばいの努力を見守りたいから。

彼女達は立派にこの訓練に耐えた。いい踊りが出来るようになったし、 ステージの演出や組踊りの手法も覚えた。

この時期活躍した者、小林佐智子、関根伸子、小林由美子、高島美詠子、沖田朋子、五十嵐友佳理、緒方晶子、和栗順子の諸子、この内、緒方、和栗の二人を除く六人のべテランは、現在もステージに、街踊りに、後進の指導に、積極的に活躍していることはご承知の通りである。

笛の小畑聡君を忘れてはいけない。この時期、 やはり度々娯茶平へ出向している。

五十年秋、娯茶平は、結成三十周年を迎え、 この記念行事終了後、福田連長は、会長になられ、新連長に四宮生重郎氏が就任された。

福田氏在任中、何回かお手紙をいただいたが、その中で度々、

「一生を棒に、悔なし阿波おどり」

と書かれていた。郷土の芸能を心から愛する人の真情あふれるいい言葉だと思う。四宮生重郎氏については、改めて申しあげるまでもあるまい。徳島を代表する踊り手として、特に正調派の第一人者として、余りにも高名である。真剣そのもの、少しも気を抜くことのない踊りには、 ハッと息を呑む迫力を感じさせる。

それでいて、日常の四宮氏は少しも高ぶったところがない。いつだったか、徳島をたづねた時出迎えに出られていて、私の荷物を持たれたのには全く恐縮したものだ。

五十一年、この年飛鳥連は、ひとつの転機を迎える。

八月富沢君と私二人、徳島へ行った時のことである。堂久保さんが三時に文化センターの楽屋へ必ず来るようにという。定刻に参上すると、階上の喫茶室へ案内してくれた。

間もなく四宮連長が来られての話、

「私共の役員会でいろいろと相談した結果、これから飛鳥連さんと、私共とは正式に姉妹連としてのお付き合いをしようと決まりました。今までは、久保やんが窓口になってお付き合いしとった訳ですか、これからは連同士の広いお付き合いをさせていただきます。今後も阿波おどりの為に一生懸命やってください。」

そばから堂久保さんが、

「何か文章でもと思うたんやが、そんな例もないし、書きようもないんで、口頭でお伝えすることになりました。これで私も安心や。」

顧みれば、堂久保さんと私が文通を始めたのが四十七年秋、それから四年、非公式ながら、よく私達を指導してくれたものだと思う。その間に培われた幹部の方々との人間関係、それが今、実った訳である。一遍の計算や利害を直接目的とせず、人間同士のふれ合いの中から生まれた姉妹連、阿波おどりとは素晴らしいものだ。踊りという、ただひとつの共通項をもった者同士の心の通い合い、大切にしなければと思う。私は四宮連長の言葉を厳粛に受けとめた。