第6章 徳島にて
東京と徳島、飛行機で二時間足らず、鉄道と船乗継ぎで八時間、直通フェリーで二十時間。私達の徳島旅行は、往路最も時間のかかるフェリーを使用した。八月十五日夕方、東京港を出発して翌日の十三時に徳島港に着く。
随分とまどろっこしい話だが、船旅は、ロマンの香りがあるとか、一度はやってみようということで、このコースをとることにした。ふだん、忙しく仕事をしている時は、一日が短くて、一日が二十四時間で終らず、もう二、三時間あったら、などと思うことも多いのだが、船の上では、時計の針がなかなか進まない。しかし、時間かかかるというのはよい面もある。飛行機で行くと、余り早すぎて頭の切り換えがつきにくい。旅情なんか、これっぽっちも感じる暇もないが、船旅は、たっぷりそれを味わわせてくれる。
夜、甲板へ鳴物持ち出して踊りを始めると、他のお客さんが集ってきて、仲間に入る人もいたし、話しかけてくる人もいた。楽しい一夜であった。ただ寝つかれないのには困った。横になっても、エンジンの細かい震動が伝ってきて落着かない。明日の不安もあった。夜半、何度も起き出して甲板へ出たことを記憶している。
翌十三日徳島港の埠頭に近ずくと、出迎えの人が大勢集っているのがみえた。その中に踊り笠、衣裳をつけた人がチラホラ。「誰か、来てるようだよ・・・」
着岸して、よくみると、堂久保さん、吉田さんの顔がみえた。子供達は歓声を上げて手を振る。それが判ったのか、向うも手を振っている。
福田連長がいた 。一宮さんもいた。
「よくいらっしゃいました」と連長。
「とうとう来ました」と私。
子供達に福田連長を紹介し、一同揃って、「よろしくお願いします」。迎えのバスで猪の山寮へ。
その夜の踊りで、私は、大変に困ったことを覚えている。
六時に「城の内演舞場」(今はないが)で娯茶平といっしょに出発したのだが、スタート順がやかましいとのことで、別編成にせず、先頭に娯茶平と飛鳥連の提灯を並べ、その後に、娯茶平本隊、鳴物、飛鳥連の順で編成。幸か不幸か、その日の娯茶平はフル編成。十数名の尺八が先頭を行く娯茶平独特のスタイルである。飛鳥連の提灯は、立場上私が持つことになったからたまらない。始めて本場の演舞場へ入る、それだけでも緊張しきっているのに天下の娯茶平の先頭を行くことになるとは気もソゾロ。堂久保さんに「中央附近までいったら、戻って、飛鳥の前にきていいから」といわれそのつもりで恐る恐る進んでいくと、まだ中央まで行きつかぬ内に、福田連長(本部席にいたらしい)が飛んできて、飛鳥の前へついてよいとの指示。
「でも、堂久保さんに中央附近まで、このまま行くように云われてんですが、何か、順番がやかましいとかで・・・」
「わしが、話してあるから大丈夫だ。やっぱり提灯は、自分の所にないと、踊り子が可哀想や」と連長に云われ、それではと、戻っていくと、今度は堂久保さんに叱られた。
「まだ早いんじゃ、受付係に見つかるとまずいんじゃ」娯茶平は大編成だから、この時、飛鳥連は、やっと出発点を出たところ。仕方がないから、端へ寄って、飛鳥連が来るのを待つ。オロオロと体栽の悪いことであった。しかし、その後の演舞場では、うまく話が通ったらしく、私は飛島の前にいれば済むことになってホッとしたものだ。
二日目の昼、 フジフィルム主催の撮影会が城の内演舞場で行われ、娯茶平と、当時人気上昇中の山口百恵がモデルとして登場するという。皆に聞いたところ、是非見たいということで会場へ赴いた。ところが入るには、フィルムを三本買わないと、入場券が貰えない。止むなく三十名分九十本のフィルムを購入する破目になる。このフィルム、帰京してから町内のカメラ屋さんに買い取ってもらったが、帰路、この荷物が随分邪魔になったものだ。
その夜の踊りは、前夜と異なり、飛鳥連を主体に娯茶平から二十数名の応援がつくという編成で、九時頃迄、各演舞場を巡回した。この方が、私達にとっては気楽であったし、子供達ものびのび踊ったように思う。その前年から、男の子にヤッコ踊りを教えていたのだが、徳島の演舞場で、これをやらかしたのにはびっくりしたものだ。
この日の泊りは、簡易保険保養センター、眉山々頂にある。
ロープウェイに分乗して、山頂駅で集合する。徳島の夜景を楽しむ観光客が三十人程もいたと思う。
眼下の街の灯が、無数の星のように輝いている。ひときわ明るい ところは、演舞場であろう。
「いっちょう、やるか」と誰かの声。
たちまち、鉦、タイコが眉山々頂にひびき始める。子供達も大ハッスル。
「ヤットサ、ヤットサ」の掛声もはずんで踊りの渦が出来た。周りの観光客も手拍子打って大よろこび。
徳島最後の夜の楽しい想い出である。