第5章 基礎づくりの頃

四十八年夏、椿山荘出演の為、 上京した娯茶平は、八月十日二人の優秀な踊り手を指導者として派遣してくれた。河野祥宏氏と、吉田昌代さんである。二人共当時の娯茶平の中核的踊り手であったと思う。

河野氏は、高校の体育教師が本職であり、吉田さんは、体育大学の学生で、将来教職につくことを目標としていた。そういう二人であったから、子供の扱いもうまく、又、踊りの指導も卓抜したものであった。河野氏の指導は、ひとりひとりの個性を生かし、従来の踊りを部分的に修正し、極く僅かに新しいテクニックを追加するというやり方である。男踊りは個性を大事にする方がよく、自由奔放であるがよいと教えた。吉田さんは、全身のリズム感と、そのリズムにのった足の運びが大事、手の振りは、足が出来れは、自然についてくるということで、もっぱら足を中心の指導であった。

私達が感心したのは、踊りのテクニックもさることながら、教え方にあった。

誠に熱心に、懇切に、としか表現すべくもないか、とにかく感銘を受けた。こういう優れた指導者を派遣してくれた娯茶平の好意を有難く思った。


この年、飛鳥連は、娯茶平との接触を深める一方、通常の活動もほば前年並に行っている。男子の黄色い、ハッピを作ったのもこの年である。女子の帯もようやく揃えることができた。

衣裳が整ってきたせいか、全体的なみかけは大変よくなり、その為か、 どうか、八月の大会で優勝という栄誉を担うことになる。

現在(五十六年度) の表彰制度は、地元連協会加盟十六連は賞の対象にしないことになっているが、この当時は、参加全連か対象となっていて、少しでもよい賞を得たいと各連共、技量の向上にはげんでいたものである。

この年の飛鳥連の踊りが特に他より優れていた訳ではないのだが、後発ながら、一生懸命やっているといういわば、奨励賞的な意味の受賞であった。

踊り子達は、素直に喜んだ。結成の時から中核となってやってきた子供達は涙を流して優勝旗を見つめていた。この時の情景を忘れることが出来ない。飛鳥連創成期の、さわやかな思い出のひとつである。

私達は、連員の労苦に報いる為、九月十六日、優勝記念と銘打って、富士山麓「花鳥山脈」へ、バスハイクを行った。 このバスハイクには、娯茶平の吉田さんも同行した。

吉田さんは、前述したように、東京の体育大学に在学中で、夏休みが終われは上京すると聞いていたので誘ったのである。

優勝と、バスハイク、この二つの要素が、うまくかみ合った形で、吉田さんとも相談の上、来年の一層の飛躍を期して、 二つの事業を行うことを決めた。その一つは、徳島旅行であり、もう一つは、定例勉強会の開催である。 つまり来年の徳島旅行に備えて、十月から来年迄、月一回の勉強会を行うという次第。

早速趣意書を配布。徳島旅行の仮申込みを受け、積立て開始。確か二十数名の申込があったと思う。これに私達役員、子供の付添いが加われは、三十名を越える目安がついた。

勉強会については、旅行と特に結びつけない形をとり、ひとりでも多く参加するよう呼びかけた。

男子の指導者としては、やはり娯茶平メンバーで、東京のデザイン専門学校に在学中だった一宮氏を、吉田さんを通じて依頼した。

この勉強会、女子の出席は割合によく、多い時は二十人位、少ないときでも十名は集ったと思う。これに較べ男子の出席は、余り芳しくなく、いつも五、六名程度だった。

この定例会は、大変大きな効果を生んだ。飛鳥連の女子踊りは、現在、高円寺一と自負しているのだが、 その基礎は、この勉強会で築かれたものである。吉田さんに直接教えを受けたメンバーのうち、大部分が、 その後連を去ったが、現在も二人が現役で頑張っているし、この二人が中心になって後輩を教え、互に研究し合って、レベルアップしてきたのである。男子踊りの方は継続的に出席した者が少なく、しかもその殆んどが連を去ってしまった為、僅かに小林由美子さん(当時男踊りをやっていた)に効果を表した程度の結果に終る。

昭和四十九年飛鳥連十一年の歴史の中の前半最大の山場を迎えた。

この年、街踊りはやや少く、テレビの仕事が二つと、徳島旅行が大きな 仕事であった。テレビは既に二回経験していたから、特に珍しい訳ではなかったが、 その二回が二回共、他の連といっしょで、しかも添えもののような扱いであったのに比べ、この年の二つの話は、両方共、飛鳥連単独、その上、内容的にもまずまずの扱いであったので、特に印象に残っている。

そのひとつは「NETビックスペシャル」。中野サンプラザホールで、七月三十一日録画した。何かの特技をもっている子供達を東西に分け、対抗戦の形で演技をする、今でもよく見かける企画である。阿波おどりの対戦相手は、チビッ子のフラダンスであった。

もうひとつは、NHKの「歌はともだち」。今はやっていないが、 二、 三年前まで、毎週土曜の夕方六時から放映していた南安雄司会の番組である。NHKホールで録画したのだが、その時の出演者は、ペギー葉山、由紀さおり、ボニージャックス等。 コーラスは徳島児童合唱団であった。徳島の合唱団が出る関係で阿波おどりの場面が必要と私達のところへ話がきたのだが、担当者の話によれば飛鳥連を紹介したのは、「NHK徳島」の皆川氏だったとのこと。皆川氏のことは前にちょっと触れたからお判りと思うが、たった一度、三十分程話しただけの付き合い。何が縁になるか判らぬものだと思ったものだ。

このビデオ撮りが、高円寺の大会前日の八月二十五日、台風が東京近辺を通過するとかで、激しい雨の日であった。話が前後するが、この日徳島から娯茶平幹部が、高円寺の本番に参加すべく上京していた。福田連長、堂久保氏、酒井氏の三名、はじめて迎える娯茶平代表である。この三人もNHKへ同行してくれた。控室で飛鳥連の鳴物チームに堂久保氏が何回か練習させ、アドバイスしてくれたことを覚えている。

この年の、何といっても最大の事業は、徳島旅行であった。

前年の仮申込みの時点では、三十人は確実と思われていたのに、年が変ると、積立てがとどこおる者か目立ち始め、定例会の出席もやや減少の傾向を見せ始めてきた。その結果、七月の正式申込みでは、私達役員と、付き添いの父兄を入れても二十人を切る有様。交通機関は、往路オーシャンフェリ 、復路新幹線ということで、既に手配完了している。交通関係については、キャンセルで済むが困るのは宿舎である。宿舎については、徳島のお盆は普通の旅館が高くなるということで、堂久保氏の手で公共施設を確保してくれてある。県職員組合の猪の山寮と、簡易保険保養センター、両方共、設備はホテル並、料金は低廉とあって、申込殺到の中を、県庁職員である堂久保氏が無理に押さえてくれたものである。それだけに減員は気がひける。それよりも三十人で踊りに行くと云っていた私達の体面もある。何としても三十人を揃えようということになって、役員手分けして連員の家庭訪問をやることとなる。同時に銀行とか、他の商店街にも呼びかけたり、ひどく苦労したものだ。しかし努力の甲斐あって、他の街から三人、銀行から一人、商店会事務局員一名、それに、参加を決めてくれた連員を加えてきっかり三十名確保することに成功した。随分苦労したが、この体験から私達はその気になって協力すれば、大抵のことは出来るという自信を持つことが出来た。