第4章 娯茶平との出会い

飛鳥連と娯茶平の出会いは、何やら運命的である。

いくつかの偶然が重なり合って、それが、一つの結果につながっていく。見えない大きな力が、或は神様のような存在が、この二つの連を結びつける為に「偶然」という機会を作ってくれたような気がする。

富沢君の土産話によれば、その夜、十時過ぎ、踊見物を終えて、いったん旅館へ引上げてから、どこかお茶でも飲みにいこうということで、小沢さん (現振興協会会長)、城石さん(現パル地区委員長)と三人で宿を出た。宿の前が広い道路になっていて、向う側の方が、それらしい店が多そうだと、近くの交差点で、信号が青になるのを待っていた。

と、そこへ、娯茶平の鳴物ゆかたを着、腰に細身のバチを差した中年の男がやってきて、やはり信号待ちの様子。

その顔を見て、富沢君は「あっ」と思った。

話は一年前にさかのほる。四十六年八月六日、飛鳥連が椿山荘へ、娯茶平の踊りを見学に行ったことは前に書いた。

ステージが始まって私達は少々異常なことに気づいた。締ダイコの鳴りがひどくひびく、すごい迫力で打ち鳴らしている。よく見るとこの鳴物チームには、大ダイコがない。打楽器は、締、一丁だけである。だからあらゆるテクニックを躯使して、力いっぱいたたいているのだと判った。それにしても鮮やかなバチさばき。締ダイコ担当の富沢君が腕組みして正面から見たり、横へ回ったり見つめていたものだ。第一部が終って、三十分の休憩時間、私達はステージ裏の駐車場へ出てみた。女性の踊り子と、三味線のおばさんが涼んでいた。私は三味線のおばさんに近づき、素朴な質問をしたものだ。

「娯茶平さんの場合、こういうステージでは、大ダイコは使わないのですか」それが、この連の方針かと思ったのだ。

返ってきた答は極めて平凡なものであった。

「いえ、大ダイコ使うんよ。今日は、人がいなくて使っていないけんど、昨日までやってた人が、交替するんで、今朝徳島へ帰ったんよ。替りの人が今日夕方迄に着くはずだったんだが、台風の影響で船も飛行機も欠航で来れんようになってな、明日は来ると思っとるんよ。ゴメンな・・・」

これで合点がいったのだが、お陰で締ダイコの名人芸を充分に堪能した訳である。

富沢君が「あっ」と思ったのは、椿山荘で強烈な印象を残した、 その人だったからだ。

「あなた、去年、椿山荘で・・・」「えー、あん時、見とったんですか・・・」

まあ、いっしょにどうぞ。ということで、着いた先が「甲子万」という店。ここが娯茶平のたまりらしく、幾人かの幹部級が一杯やっている。名人と云われる四宮生重郎氏にも引合わされる等、踊り、鳴物について話を交わしたといういきさつ。

私が、この出会いを連命的というのは、ひとつには、椿山荘へ、八月六日ではなく他の日に行っていたら、当然、大ダイコも揃っている訳だから、締ダイコが特に印象に残ることはなかっただろうし、富沢君もその人の顔を記憶してはいないはずで、とすれば、一年後、徳島の街角でその人に会っても声をかけなかったかもしれない。又、いったん宿へ戻ったのだから、そのまま外へ出なかったら、或は出たとしても、ほんの僅か時間がずれていたら、出会うことはなかったからだ。

ひとつひとつの場面は、ただの偶然である。しかし八月六日、いや、もっとさかのぼって昭和四十年の「娯茶平チョウチン」を原点とすれば、娯茶平と飛鳥連は結びつくべくして結ばれたのではないかと、今しきりに思われてならない。

さて、私は、富沢君から渡された一枚の名刺を頼りに手紙を送った。内容は、富沢君等が世話になった謝辞と高円寺の現況、飛鳥連の悩み等、率直に述べたものだ。

十日程経った頃、待ちかねていた堂久保氏からの返事が届いた。その全文を原文のまま紹介する。

「近年まれな晴天続きの盆踊りがおわりました。まだ耳鳴りがし、体のフシブシがうずく今日此頃ですが、徳島は待ちかねていたように、ドシャ降りの雨が降っています。

早速のお便り有難く拝見しております。

大変褒めて頂き恐縮しております。

今更ながら、我々は、何時の場合でも、一生懸命、踊り、鳴物をやらなければとの感を深く致しました。これからも東京の「あすか連」の姉妹連と云われてもはずかしくないよう頑張ります。

高円寺の阿波踊りは随分と前から、非常にスケールの大きい、 そして華やかな踊りとお聞きしておりましたが、文面でいよいよ盛大な、或は本場のそれに勝るともおとらない感を深くして、こうして筆をはこんでおりましても、私自身、体が自然に浮いて参りまして直ぐ飛んで行ってお仲間に人れて頂きたい衝動にかられて参ります。

連長として今頃は日夜、会場の設営に或は練習に大変な気づかいかと存じますが、どうか健康に留意されて成功裡に終わる事をお祈り致しております。

最後になりましたが、富沢さんほかお二人さんにくれぐれもよろしくお伝え下さい」

具体的に何を、どうということではなかったが、駆け出しの私達を充分尊重した文面に好感が持てた。いい人に違いないと思った。

第二回目の便りは九月中頃である。

私が、高円寺の大会の模様と、又たまたま来街した、徳島放送局の皆川氏との対話の内容について書いたものへの返事である。

「秋晴れのいい天気が毎日続いています。かんな月とかでお月さまが大変きれいですね。

其の後お元気ですか。今年の阿波おどりは晴天に恵まれて盛会裡に終了したそうで、又、「あすか連」は技能賞を受賞されたそうでおめでとう御座居ます。日頃からの連長さんの情熱のたまものと思います。心からお祝い申上げます。先日平和連の中島連長、葵連の小野連長と逢い、いろいろ御当地の様子をうかがいました。忌憚のないところを三つばか り申上げます。先づおはやしの件で、皆川氏の説は室内の場合で、街中等を流す場合はやはり、大編成でリズミカルな(早くなったり遅くなったり)楽隊でなければならないと思います。

何故ならば、踊りが単純なので、踊り子が自然に浮かれ出てくるようなリズムを要求されます。小学校五年生からというのは抵抗を感じませんが、体力に限界があるのじゃないでしようか。

女踊りの場合は、唄の文句にあるように「しなよく踊れ」。これは女性にあてはまると思います。男踊りは、いわゆる男性的に、情熱的に、そして自由奔放に・・・ではないでしようか。

あんまり良い意見とは思いませんが、参考にして頂けたら幸甚です。しかし関根さんのファイトには実のところおどろいたり、びっくりしたりで感服致します。我々も毎年毎年勉強していますが、これからもあなた方に負けないよう頑張りたいと思います

これからもどうかよろしくお願い致します。最後になりましたが、富沢さん他連員の方によろしくお伝え下さい」

この二つの手紙から、堂久保氏自身の人柄、 そしてその背景にある娯茶平という連の持っている雰囲気が判るような気がした。

私は堂久保氏について、椿山荘で懸命に締ダイコをたたいていた姿は覚えているのだが、顔は全く記憶していない。無論、先方も私を知らないのだから、 二人は全く未知の者同士。

ペンフレンドとしての付き合いは、翌年の七月まで続く。

昭和四十八年七月二十六日、娯茶平一行三十人、日劇出演の為上京。

その数日前、堂久保氏から電話があり、この機会に是非お会いしたい。連長にも紹介するとの趣旨。

さて、 その当日、私達五人の役員は、一行の着いた宿舎へ参上。あらかじめ用意した新宿歌舞伎町の「新島」へ幹部を案内した。福田雅哉連長、高橋敬副連長、そして堂久保哲男氏である。堂久保氏は私の顔をみて「若いですなあ、もう少し年配かと思った」「若い、若い」を連発した。私の方は逆で彼を、もう少し若く想像していたのに、意外に年配に見えたものだ。色浅黒く、精力的な感じだが、目が優しいのが印象的だった。

後で判ったのだが、実際の年令は、私の方が、一つ年長だった。

福田連長は、大きな組織をまとめている人物。始めは何か近寄り難い感じで、私達、ひどく緊張したことを覚えている。しかし、皆、踊り好き同士、話を進めているうちに、次第に打解け、阿波おどりについて、連の運営について、いろいろ意見を交わしたのであった。その中で、福田連長のいくつかの言葉が特に印象に残っている。

「阿波おどりは、本来陰(いん) のもの、先祖の霊を慰める盆踊りなんだから、ただおもしろおかしくやればいいというもんじゃない・・・」

「阿波おどりは、全身で踊るもの。決して手先だけのものじゃない。ましてや顔で踊るものでもない・・・」

「うちの四宮(四宮生重郎氏のこと)は、 ニコリともしない。むしろ悲しげな表情しとる。それだけ真剣なんや・・・」

随分と勉強になる話をしてくれた。

終り頃、堂久保氏から「飛鳥連として何か頼みたいことがあったら、 この機会に云った方かいい」と口添えがあり、「是非娯茶平さんに指導を受けたい。将来、力がついたら、姉妹連云々ということも或は出るかも知れないが、今は全面的なバックアップを頼みたい。差し当っては、八月椿山荘来演の折、指導者を派遣していただき、練習会を行いたい」そんな意味のお願いをしたのである。

翌日、富沢君とつれだって日劇のステージを見に行った。富沢君の娘さんと私の娘も同行した。この日、堂久保氏は、鳴物でなく、白いハッピで踊りをやっていた。私の記憶の中で彼が本格的に踊っているところを見たのは、この時だけである。

堂久保氏との文通の時期、娯茶平と飛鳥連は細い細い糸のようなつながりであった。

七月二十六日、 その糸は、やや太く強いものになった。

新しい時代が始まる。そんな期待に胸ふくらむ私達であった。