第3章 低迷からの脱出

結成披露パレードが、一応成功裡に終ると、その一週間後(二十二日)飛鳥連は、始めての外部出演として下北沢商店街へ踊りに行った。せっかちな私は一刻も早く、先輩連のように外部進出もこなせる行動性を持ちたいと思い、その最初の試みとして下北沢を選び、当時下北沢ヘレギュラー出演していた天狗連の中村連長を通して先方と交渉していたのである。折しも下北沢商店会でも高円寺の大会へ踊りに来たい希望を持っていた関係もあって、 バーター制でこれが実現することとなった。 バーター制というのは、高円寺が先方へ一連派遣する、先方は高円寺へ一連派遣する交換方式のことで、これだとお互い謝礼等は出す必要なく、互にその大会が賑わうという一石二鳥をねらった制度である。派遣に要する交通費等の経費は派遣した商店会が、これを負担することになっていて、連の収入としては、ゼロに近いものなのだが、下北沢の大会が毎年高円寺の一週間前に行われる関係上、練習の締めくくりという意味もあり、飛鳥連は、その後も毎年下北沢へ行っていることはご承知の通りである。ちなみに下北沢は、高円寺より十年遅れて阿波おどりを年中行事としていたから、この年は確か、五回目の大会であったと思う。高円寺の本番については多くを語る必要はないだろう。先輩諸連に伍して、皆一生懸命やった。始めての高円寺本番出場に、子供達も、私達も燃えた。本番中、少しでもダラけた態度を見つけると容赦なく雷を落したりした。たとえ、技術的には幼稚でも真剣に一生懸命踊ることが大切であり、それが見る人の感動を誘うのだと考えていた。

この年の記録を見ると、初年度だというのに意外に行動的だったことが判る。下北沢参加は前述の通りだが、高円寺の本番後に、「大銀座祭」(十月三日)「12チャンネルTV」(十一月十二日)に出演している。

大銀座祭は当日が杉八小学校の運動会に当っていたため、同校生以外の連員二十一名が葵新連の子供達と合同連を組んで参加した。

新橋を出発して銀座のメインストリートを京橋方向にパレードするのだが、私達の前が、ブラスバンドだったので、「パッパカパー」と勇ましく進行してしまう。何しろ阿波おどりというのは、進行速度が極端に遅いから、みるみる距離がはなれていく 。反対に後はつかえるという始末で、途中、進行係から、前に追いつくまで踊らずに歩いてくれとの指示。最高の見せ場、四丁目交差点を走って渡ったのだからお笑いである。この時の経験から、その後この種のパレードの話にはなるべくのらぬことにしている。

12チャンネルは、「天才児スタジオにいっぱい」という生番組で三十名参加とある。飛鳥連、テレビ出演のこれが最初であった。

大体、TVというのは、実際に自分達が映るのは、せいぜい二、三分に過ぎない。リハーサルに時間がかかるし、仕事としてはつまらぬものが多い。しかし私達がふだん茶の間で気軽に見ているTVが、実は大勢のスタッフの共同作業で作られている、そのプロセスが判るという意味で社会科見学としての価値があるし、又、ブラウン管では見られないタレントの素顔みたいなものも見られるという面白さもある。

例えば控室で歌手が発声練習をやっていたり、バックをつけるダンスチームが廊下で練習していたり、トイレの入口で人気タレントと順番をゆずり合うという場面もあったりする。

結成二年目(四十七年)になると俄然、外部出演がふえる。三軒茶屋、金町、下北沢、大塚、川崎に、それぞれ三十名前後のメンバーが出張している。

踊りそのものは、二年目になっても依然未熟。のびゆく連時代と大差ない状態で、本来、外部出演などおこがましい次第なのだが、何しろ、当時は、出張可能な連が天狗連、葵新連位しかなく、一方出張要請はふえつつあり、結果的に私達の連も動かされたといった事情があった。

今から思えは冷汗ものだが、 この年、何と金町、 川崎へは指導に行っている。自分の連の踊りも欠点だらけなのに他人様に教えるとは、 何やら面はゆい思いはあったが、与えられた任務は果たさねばならない。一生懸命指導に当ったものである。このように外部関係がふえて来たこともあって、私達は、自分達の技術の向上と「飛鳥の踊り」を確立することが急務であると真剣に考えた。

よその街へ行く以上、私達は、 それがたとえ子供の連であっても、高円寺の看板を背負っている訳だから、少なくとも、先方の街の人達よりも、よい踊りを見せなくてはならよい。「子供だから、結成二年目だから」は言い訳にならないのだ。

「いっそ、天狗や葵新に頼んで指導してもらったら・・・」そういう意見も出た。しかし私はそれをとらなかった。ただの一度でも教えを受ければ、やはり負い目が出来る。飛鳥の将来にとって決して好ましいことではない。いつの日にか、五分五分の立場で、もしかしたらそれ以上を目指すには、決して仲間の連の下風に立つようなことはいけないと考えたのである。天狗連は徳島平和連の、葵新連は徳島葵連の影響で伸びている。それ故の独自性を持っている。とすれば、私達が教えを受けるとすれは、やはり徳島の由緒正しい連でなければならない。何とかして徳島と接触を計りたい、と思いながら何の方策もない。どうにもならないもどかしさに私達はひどく悩んだ。

しかしやがて、その悩みが軽くなる日がくる。

その年、八月十五日、国鉄高円寺駅が主催して徳島観光ツアーが催され、私の連からは、富沢君、小林君が参加した。私も行くつもりであったのだが、その年の四月に、父が病を得て入院。その後、転院、自宅療養を繰り返す有様で、とても旅行どころではなかった。

出発する小林君等に「よろしく頼む、機会があったら、向うの有力連と接触してきてよ」先ず無理だろうと思いつつ、 そんなことを云った記憶がある。

ところがである。帰ってきた富沢君から、思いがけない明るいニュースがもたらされた。

「娯茶平の幹部と会ってきたよ・・・」

「えっ」と私。

「ウソじゃないよ。俺と小沢さんと城石さんと三人で、娯茶平のたまり場でさ、四宮さんとも話して来たよ」

「それで、どんな具合だった。これから付合って貰えそうか」

「いろんな話をして来た。だけど、これからのこととなると判んないな。とにかく名刺を貰ってきたから、うまくやってよ・・・」

渡された名刺には「阿波おどり娯茶平、堂久保哲男」とあった。

この一枚の名刺に、私は飛鳥の運命を賭けた。堂久保氏に手紙を送ろう、手紙を送っても、先方が高円寺を問題にしていなければ、返事もこないだろうし、来ても通り一遍のものだろう。又もし私達の真情を理解してくれれば、温い内容のものであるだろう。

飛鳥の未来に、一条の光が見えた。そんな明るい気持で、私は便箋五枚程の手紙をしたためた。