第2章 「飛鳥」の船出

本来、私という人間は、どちらかというと慎重派で、じっくりと考えてから行動するタイプなのだが、反面、意外に気短かなところもあった。のびゆく連独立問題は、その悪い面が露呈したものだと私は自分を戒めた。

独立連をやるなら、全くゼロから出発するつもりでなければならない。将来を見通したビジョンみたいなものも必要だろう。今度は、きちんと手順を踏んでやろうという訳で、同志をまとめ設立世話人会を作ることにした。 のびゆく連の名簿を参考にして、商店会関係の踊り子の親をチェックした。その親達に個別にあたり、趣旨に賛同した人を世話人になってもらったのである。ゼロから出発するとはいっても、中核となる役員と連員候補が多少は必要であろうとの計算である。

その結果、世話人として名を連ねたのは、谷幹男、小畑肇、小林茂雄、富沢義夫の諸君と、私、計五名であった。 この五名に従う子供の数は七名、更に親戚の子とか、グループをなしている子を加えると、基礎人員十九名となる。初年度最低三十名は必要なので、子供の友達にも声を掛けることにした。来年シーズン初めに募集広告をすれは、三十名は軽く越えるだろうと予想を立てた。世話人会を三回程開き、結成を確認、次いで連名の決定、資金調達方法、衣裳等、具体的準備を急ぐことになる。

先づ連名を決める作業に入ったが、各世話人が思いつくままにいろいろな案を出した。どんな案が出たか、 残念乍ら記憶にないが、最後に残ったのは「あずさ連」と「あすか連」だったと覚えている。

「あすか連」に決ったのは、 次の理由による。

「飛鳥」は「明日香」と同じ地名だから、 明日香の文字をはめれば、 「あした香る」とう意味になり、未来ある少年少女の集まりにふさわしいのではないか又、飛鳥時代は、 日本の仏教文化の黎明期であり、 日本人の心の琴線にふれる、いうなれば、心のふるさとみたいなニュアンスを持つ。 こんなやりとりからこれに決ったのである。正式には「飛鳥連」だが小さい子には読めまいということで、 連ヂョウチンその他には「あすか連」と表示する事になった。

問題は役職分担だが、これは連長一名を決めれば、他の四人は副連長になるということで話を進め、私は谷幹男君を連長に推薦した。

谷君の指導力は、これは抜群であり、 又、 バイタリティに富んでいる、 牽引力としてうってつけであると思ったからである。

ところが谷君は固辞した。五人の中では、 一番遅く阿波おどりに参加したから初期の苦労を知らないとか、新連結成に際し特に積極的に動いた訳でもないから、自分は受けられないというのである。

「私は関根さんこそ、 ふさわしいと思う。やはり一番積極的に動いた人がなるのがいいと思う。ビジョンもお持ちだろうし・・・」

逆に私になれと云う。私は当惑した。今迄の商店会役員としての経験から自分は女房役に向いている。表面には余り出ずに、陰の力として細かい仕事をやる、つまり庶務担当が適任だと思っていたからだ。しかし他の三人までが、 谷君の意見に同調。「あんたがやらなきゃ、この話は、こわれるよ・・・」富沢君あたりがオドシをかける始末。 二、三のやりとりがあって結局、私が引受ける仕儀となってしまった。

「連長、 副連長といっても、便宜上のこと、代表者がいなければ差支えがあるだろうから、 私がやる。しかし皆さん全部が連長のつもりでやってくれなければ困るよ・・・」そんな条件をつけた訳なのだが、それから今日まで十一年間、連長としてさまざまな苦労をなめることになる。しかし振り返って、やはり他の四人の人達、又、後年、副連長に就任された土橋堅氏を始め、連員として名を連ねた沢山の人達の積極的な協力があったからこそ、十一年という長い間、連長稼業が勤まってきたものと感謝している。

こんな経過を経て連名が決まり、役職分担が決まったその日を私は、「飛鳥連」誕生の日と理解しているのだが、大変残念なことにその日付の記録がない。多分昭和四十五年十月末だったと覚えている。

こうして飛鳥連は結成されたものの、文字通りゼロなのは活動資金である。来年の本番までには衣裳も揃えねばならないし、練習にも費用がいるだろう。といってスポンサーがつくはずもない。やはり自分達でまかなう他はなかろうということで、とりあえず毎月一人二千円ずつ積立てることにした。五人で月一万円、来年の本番迄に十万円になる。不足が出れば、その時点で必要額を持ち寄ることにした。先輩の、天狗連、葵新連あたりは、外部出演が多く、その面での収入があり、運営経費のかなりの部分をまかなっていると聞いていた。だから我が連も、その内、そんな方法で運営出来るのではないかと、そんな楽観的見通しも持っていたのである。しかし、実際は、そううまくは参らない。確かに二年目頃から外部出演もふえ、多少の収入も得るようになったが、それにつれて諸経費もかさみ、四年目頃からは月二千円から四千円に値上げする始末。これは十一年たった今日も続けられている。特に衣裳の新調、追加、諸道具の購入等が重なった年には、一時金の拠出もあるという具合で、いつも苦しい財政状況で推移している。

翌四十六年春、いよいよ衣裳製作にとりかかる。前述したように資金ゼロの状態で始まった仕事だから、衣裳はすべて参加者に購入して貰うという前提で出発した。そのことは、連に加入するには衣裳代を自己負担しなければならないから、当然、加入にブレーキをかけることになる。とすれば、出来るだけ安価なものを作り、又、初年度は完全な形にしないで、帯など付属品は、次年度以降少しずつ揃えることにした。かくて初年度は男女共、同一デザインの木綿のゆかたのみ作ることとなる。

のびゆく連出身者は、笠、下駄、帯等、手持ち品があるので、ゆかた代三千円程度で済むのだが、全く新規の加入者の場合は五干円位の負担になったと思う。それが障碍になって、せっかく加入希望がありながら、親にお金を出して貰えず断念した子もあったと聞いている。残念だが止むを得ないことであった。

このゆかたに使用した菊の模様は、家紋の「実相院菊」を一部手直ししたものである。日本文化の原点を象徴する「飛鳥」には菊がふさわしいと、紋帳を調べ、これを選定したのであった。

余談だが、このゆかた、現在でも私、ちょいちょい着用している。

「初心忘るべからず、さすが連長ですね・・・」谷君にひやかされるのだが、本当のところ、私はハッピは似合わないし、さりとて鳴物用のテトロンは踊りには向かないから止むを得ず着ているというのがホンネである。財政状況がよくなったら、もう少々上等なものを作ってもらいたいと、心ひそかに願っている。

練習は、七月始めから週一回位の割合で行われたと記憶する。練習といっても踊りを熟知している指導者がいない、谷君、小畑君が男子を、小林君と私が女子を、富沢君が鳴物という分担で、それまでに知り得た知識をもとに指導に当ったのだが、今考えると大変に稚拙な指導であった。何しろ「これぞ我が連の踊り」というものが全く定っていないのだから仕方がない。のびゆく連出身者の何人かが一応踊れるので、その子等をモデルに、皆この真似をせよ、といった具合。それでも回を重ねると一応恰好だけはつきそうな見通しが立ってきたので、一度、皆に本場徳島のおどりを見せる必要があると思い、八月六日(金)椿山荘見学会を催した。当時の踊り子達は、天狗連や葵新連の踊りしか見た事がなく、とかくそれを真似たがる傾向があった。本場ものを観ることで多少共視野が広がり、高度な技術と、本物だけが持っている独得のムードを知ってくれればと、そんな期待を持っていたのである。

御承知のように、椿山荘では、 毎年七月二十日頃から八月末迄、毎晩、徳島の有名連が一週間交替で阿波踊りのショウをやっている。私も何回か、見学して随分と勉強させて貰ったものである。

椿山荘へ上京する各連の受持期間を問合せたところ、八月四日から九日まで「娯茶平」出演とのこと。「これだ・・・」と思い、役員の都合を勘案して、見学会開催を六日に決めた。

何故、「娯茶平」に飛びついたかというと、 それはこんな訳がある。

昭和四十年、初めて青年部の仲間達と徳島見学に行った時のこと、徳島の中心街に飾られている装飾チョウチンの中に「娯茶平」とだけ書かれたものがあった。その他のものには企業名や、商店名が書かれているのに、「娯茶平」だけでは判らない。さりとて近くにそういう屋号のお店もないようで、もしかしたら、徳島名物のまんじゅうの宣伝か、料理屋さんの名前か等と、同行の者と話したりした。

今になれば笑い話だが、昭和四十年といえば、高円寺で阿波踊りか始まって九年目、飛鳥連結成五年前のことで、当時の私達の徳島に関する知識はそんなものであった。踊り連の名前といったら「蜂須賀連」「のんき連」位しか知らず、 それでも「娯茶平連」と書かれてあれは連の名前と判断するのだが、「娯茶平」という正式名ではサッパリである。おかしなことに、この判らないということが、よほど気掛りだったのか、その他のチョウチンのことは全く覚えていないのに「娯茶平」だけは鮮明に覚えているのである。

「娯茶平」が徳島の有名連の名前だと知ったのは、 それから一年程してからだった。戦後、一番早く結成されたグループで、伝統を重んじ、最も正統的な踊りをやっている優れた連だと聞いたのである。しかしその後、一度も娯茶平の踊りを見る機会がなかったから、椿山荘へ出演と知って、どうしても見たいと思ったのだ。

こんな思いを秘めて八月六日、私達二十八名は椿山荘へ赴いたのだが、実はこの日に娯茶平を見に行ったということが、後年、飛鳥連にとって誠に大きな成果をもたらすことになる。大袈裟な云い方をすれば、昭和四十六年八月六日こそ、飛鳥連の針路を決めた運命の日といってもいいかも知れない。 これが、もし、五日だったり七日だったりしたら、今日の飛鳥連は、違った行き方をしていたかも知れなかったからだ。

このことについては、後の章で詳しく述べることにして、先を急ごう。

この様に見学会や、練習会を重ねた飛鳥連は、八月十五日、いよいよ街頭へ進出する。高円寺パルの街路と南口駅前広場を使って結成披露パレードを繰り展げたのである。参加人員四十五名と記録されているが、 これに葵新連の子供グループ約三十名が応援参加。二連編成で、賑かにねり歩いた。商店会専属アナウンサー高田エイ子さんがハンドマイクで見物人に呼びかけ、 テニスウェアの女子二人がプラカードを持って先導するさまは、結構人気を集めたと思う。全体的ムードは大変上ったのだが、踊り子ひとりひとりをみると、これはもう、サッパリで、踊りも未熟なら、着付けもお粗末、大体、ゆかただけしか揃えてないのだから。帯はまちまち、女子のお腰も、白に近いピンクあり、赤に近いものあり、更に大人用絵羽ゆかただから、仕立てが大きく、あげをとったり、 たくしあげたり、胸のあたりが、モコモコとかさ張る仕末。どうにもしまらない姿であった。しかし、 その時は、「いよいよ創り上げた」そんな喜びの方が先に立って、意気軒昻たる私達であった。