終 章 飛鳥の友へ
ここまで書いてきて、読み返してみると、随分ハショッて書いたものだと反省させられる。十一年、やはり長い道程だったと思う。
私のつたない筆力では充分に意をつくせなかったが、汗と涙にまみれた歴史だった。
この原稿、五十六年十一月初めから書き始め、今は一月三十日、正味三ヶ月を要した。二、三日おきに仕事を終えてから深夜二時間程書き進み、午前二時、三時になることもしばしばだった。途中止めようと思ったこともある。しかし、「私がやらねば誰が・・・」そう自分を励まし続けてきた。これを書いたところで私自身、何の得にもならないと判っていながら続けてきた訳は、
第一に、今日の飛鳥連の成り立ちを多くの人、特に現在のメンバー 、将来加入するであろう人達に正しく理解してもらい、正しい姿で継承して欲しいから。
第二に、飛鳥連々員であることに誇りと自信を持って欲しいから。
第三に、何かの理由で連を去らねばならぬ人、特に女子は結婚による退会というケースがあるので、その人達に心を燃やした青春の記録を提供したいから。等々である。
現在の飛鳥連を作ったのは、現在のメンバーの努力もさることながら、初期、中期に、思い迷いながらも一生懸命踊り、 そして去っていった多くのOB・OGのお陰が大きい。その一人一人の顔を思い浮べながら感謝の念を込めて筆を進めたつもりである。
全体を通して娯茶平に関する記述が多い。
実際、飛鳥連の足跡を語るとき、娯茶平ぬきでは語れない。娯茶平の皆さんには大変お世話になった。これからもお世話になりつづけるだろう。
阿波おどりは、今や世界の踊り、世界の前では、徳島も高円寺もない。協力し合ってよりよいものにしていくしかない。
技術の優劣は別として踊りのこころは同じハズ。しかし阿波おどりのこころは、 四〇〇年の年輪に支えられた徳島が上である。
「阿波おどりに一生をかけて悔なし」と胸を張って云える者が高円寺に何人いるだろうか。まだまだ少数派だと思う。
所詮、徳島からの輸人品だからと云うなかれ、 それなら、 日本人が西洋音楽やるのもアメリカ輸入の野球に血道を上げるのもおかしい理屈である。
やるなら胸を張って打ち込んでみよう。必ず、自らの人格形成上プラスになるハズだ。
踊りに打ち込むといっても、私達はアマチュアだから、 それぞれ本業を持っている、学生もいる。
集中力の問題なのだ。働く時は、 それに打ち込め、学生は勉学に励むべし、 それは鉄則である。しかし、 いったん踊りの場に来たら、 それに全力で取り組もう。その切り換えが大事だと思う。
私の経験では、踊りに集中力を発揮出来る者は、 その他の場でも立派である。
毎年、高円寺の本番前に、近隣の中学校の校長、生活指導の先生、 PTAの役員さんと連協会役員との話し合いが持たれる。
そんな時必ず、 一、二のお母さん方から、中学生の非行問題が持ち出される。踊りが非行につ ながるという心配をなさるのであろう。面白いのは、 そういう話をするお母さんは、大抵の場合、自分の子供を踊らせていないことだ。役員さんの中には、自分の子を踊らせている人も必ず二、 三いて、 そういうお母さん方は、全くそんな心配をしていないように見受ける。 つまり、実態を知らぬ人が周囲でいろいろ云うのである。
私の実感では、本当の「ワル」は、阿波おどりなぞ見向きもしない。会場周辺でウロチョロする位である。
きびしい練習ときつい本番、 それを立派にこなすには、かなりの「やる気」がいる。 「やる気」のないものの方が非行に走りやすいものだということを知って欲しい。第一長い夏休みの間、踊りという目的の為に情熱を燃やし、 その大半を踊りについやす者と無目的にゲームセンター辺りをうろつく者と、どちらが危険であろうか。
中・高校生諸君、君達の周囲には、阿波おどりにいろいろ云う人もいるだろう。しかし、自信を持って、 そんな心配は無用だということを行動で示して欲しい。
少しでも批判を受けることはしないこと。是非約東して欲しいのだ。
そろそろ本稿は終りにしたいのだが、説教調が続いて恐縮である。最後は、 ロマンチックに締めたいと思うのだが材料がない。
最後にチビッ子にひと言。
誰かさんのセリフではないが、 「君達は金の卵」将来の飛鳥連を、 そして高円寺の阿波おどりを背負って立つ人達である。男子は生涯、女子は結婚して子供が出来るまで続けて欲しい。
「飛鳥の友よ、頑張ろう」