第11章 思い出すこと、 考えること

金綱裕美という子がいた。私の記憶に誤りがなければ、飛鳥連創立と共に加入したおとなしい女の子だった。小学三年生だったと思う。家庭的に恵まれず、 一年生の頃両親が離別し、父と祖母との三人暮しだった。母親が家を出て少し経った頃、そっと母親が物蔭から、我が娘の遊ぶ姿を見、逃げるように立ち去ろうとした時、たまたま裕美ちゃんが後ろ姿を見つけ、「ママ・・・ママ・・・」と追いかけ、気づいた近所の人が抱き止めて「そりや、かわいそうだった・・・」と話すのを聞いたことがある。だから私も、それとなく目を掛けるようにしていたのだった。

二年程経った春、突然裕美ちゃんがやってきた。

「引っ越すことになりました。いろいろお世話になりました」ときちんと頭を下げるのである。「どこへ・・・」「川口です」

私は目頭が熱くなった。不辛な星を背負い見知らぬ土地へ行く、別れの挨拶がいじらしい。

「裕美ちゃん元気でね、高円寺へ来ることがあったら、きっと顔を出すんだよ・・・」それを一言うのが精いっぱいだった。

飛鳥へ集う人は多い、去る者も多い。しかし去る者の中に、裕美ちゃん程の挨拶をする者は、残念ながら少ない。

裕美ちゃん、十九才位になっているだろう。時には飛鳥連のこと、思い出しているかしら。順ちゃん、私の娘と小学校、中学校を通じて同級だった。幼時から三味線を習い、初期の飛鳥の人気者の一人だった。日本的な美人で、三味線を手にした姿はカメラマンに随分と、とりまかれたものだ。

母親が、新宿のクラブのホステスをしていて、 順ちゃんがよく私達に、

「お母さんも、よろしくネ」といったものである。それにほだされた訳でもないが、私達役員、 一度だけそのクラブへ行ったことかある。大変よろこんでくれた。

第一回徳島旅行にも随行し、子供達の世話をしてくれた。その順ちゃん、中学二年の時転居のため脱退、残念だったが仕方がない。

高校へ入った年、高円寺の友達のところへきたといって寄ってくれた。何とニキビ花盛り、「薬つけたり苦労してんのよ、今度来るときは、きれいにしてくるわ」くったくのない明るい順ちゃんであった。

新山節子さん、パル商店街の元事務局員である。祭り好きで、阿波おどりに夢中だった。

某連の徳島旅行に随行するというので、堂久保さんに会ってウチワを貰ってくることを依頼した。気のいい彼女、某連に気兼ねしながら、ウチワ三十本持ち帰ってくれた。

それからというもの、すっかり娯茶平ファンになってしまい、その関係で、飛鳥連にも随分手助けしてくれたものだ。私の前著「阿波おどり=高円寺の十八年」の表紙も描いてもらった。

数年前結婚し、伊藤姓となり退職、一度手紙をもらったが、その後の消息は不明である。

鈴江のぶよさん、娯茶平のメンバーである。吉田昌代さんの、たしか従妹だったと思う。丁度吉田さんが大学を卒業し、帰郷するのと入れ違いの形で、東京の短大入学の為上京、一年半位客員として参加してもらった。私達は指導者として位置づけたかったのだが、吉田さんという優れた指導者の後は、大変やりにくかったに違いない。飛鳥のべテランとは年令的にも近く、やや中途半端な形で、本人も楽しくなかったと思う。気の毒なことをしたと、くやまれてならない。

東徹先生(あづまとおる)東京地裁裁判長、徳島地裁所長、東京高裁裁判長を歴任、定年退職後は、弁護士さんとして活躍しておられる、東京地裁時代、安田講堂攻防戦で有名な「東大事件」の裁判長をつとめている。

徳島市内出身で、子供の頃は、親に「阿波おどりなどは、良家の子女のやることじゃない」と見ることも禁じられたそうだが、後、郷里を離れてから「阿波おどりこそ、誇るべき文化遺産」と気づき、それ以来熱烈な「踊り狂」になったという。

徳島地裁所長として赴任すると、裁判所内に「みくら連」をつくり自ら先頭に立って踊りまくった。

東京高裁に移ると、「みくら連」東京支部をつくり、高円寺の大会に十数名を引き連れて、「江戸浮連」の中で踊ったものだ。大会後、商店会事務所へ挨拶に来られた時、たまたま私が居合せた、延々三時間に及ぶ踊り談義。これが裁判長かと驚いたものだ。その後も何回かお会いし、電話もいただいた、私の著書を十冊余り所望され、お渡しした。何でも県人に高円寺の話をし、この本を進呈するのだと言っておられた。

普通なら対で話の出来る相手ではない。これか趣味の世界の素晴らしさであろう。後で知ったことだか、東先生は娯茶平の福田元連長の親戚だという。

多勢の踊り手さんの中にはいろいろな人がいる。非常に熱心で殆んどの踊りに参加しめきめきと腕を上げ、なくてはならぬ存在になる人、これとは全く逆に、高円寺の本番だけしか出てこない人、踊り量が少いから上達もしない、ふだんは何となく忘れられた存在になっている。

踊り歴は長いのだか、有江さんは後者に属する。しかし、高円寺の本番には欠かせない人なのだ。明るい性格だから、どんどん声を出す、この人が加わるとムードがあがる。私の贔屓目かも知れないが、本番が近づくと彼に会うのが楽しみになる。ホテルマンという職業上、他所出演には時間がとれないが、高円寺だけは休暇をやりくりして出てくるらしい。

阿波おどりか好きだから踊りに来る。嬉しいじゃないか、昨年の彼の踊りは大分よくなったように思えた。これも贔屓目かな。

佐野和史さん、飛鳥連の男子踊りの基礎づくりに功労のあった人である。彼の指導で伸びた者、清水君、原田君、平井君、新堀君等であるが、最も熱心に薫陶を受けた人に長谷川俊彦さんと内田貴夫さんがいる。ひところ、この二人コンビを組んで踊っていたものだ。内田さんはあまり器用でなく、熱心な割に上達が遅く、基本を一歩も抜け出せないでいた。長谷川さんは手の振りが軟らかく、なかなかいい線いっていて、顔を真赤にしながら懸命に踊っていた。真面目なだけに、やや変化に欠けるきらいはあったが、

二人共将来楽しみな人材であった。

内田さんは、埼玉県へ転居して足が遠のき、長谷川さんは仕事の関係で、サウジアラビアへ長期出張中、強烈な日照に皮膚をやられ、包帯姿で帰ってきた。その後、体は回復したようだが、ブランクを気にしてか殆んど出ていなし

二人共阿波おどりを愛している。いつの日か、戻ってくることを期待して、私は二人の名を消していない。

グループというのは面白いものである。別々に加入してきた人達なのに、皆同じような考えとムードを持っている。この連は自分に合いそうだと思って加入してくるか、或はこの人なら合いそうだということから誰かに誘われて来た。そういうケースか多いからだろう。たとえ、多少ムードが違っていても、いつの間にか同化してまとまっていく。

それが、連カラーを作り出しているのだと思う。

まれに同化出来ない人もいる。そういう人は、やがて去っていく。

飛鳥連は真面目人間が多いから、不真面目な人、何らかの利得を目的とした、 つまり阿波おどりを純粋に愛せない人は、自然淘汰されていく。

踊りに限らず趣味の世界は、社会的地位や年令、性別を超えたところに存在する。例えば、釣の会を考えてみよう。 一流企業の社長さんと、町工場の若い工員さんが肩を並べて釣糸をたれている。工員さんの方か腕がよくて、次々に釣り上げる。社長さんはサッパリである。社長さんは工員さんに教えを乞うだろう。釣友だからである。 「ワシは大企業の社長だから、町工場の工員風情に教わるものか」と意地を張ったら、社長さん决して腕が上ることはない。

踊りの世界も同じだと思う。例え子供でも、真剣に踊りに取り組んでいるものは、 いい加減な大人よりよほど立派であり、尊重されるべきなのだ。

数年前、こんな出来事があった。有名企業の役席者である某氏、練習日に三十分程遅刻した。女子踊りの様子を見ようと事務所三階へ上った。そこでは、踊り歴十年を超えるベテランを含む女子が十名位練習していたが、練習中のことでもあり某氏には目もくれない 、やがて某氏が私に言ったものだ。

「飛鳥連のしつけはなっていない。女の子たち私に挨拶をせん」、そこで私はハッキリと言った。

「あなた、自分は遅刻したのでしよう。女の子達は、練習を始めているんです。遅れたあなたこそ、自分の方から声を掛けるべきなのです。自分は男だから、年配だから、有名企業の管理職だから、女の子達の方から挨拶すべきだというのは間違いです。あなたの会社の中なら通用するでしょうが、飛鳥連では通用しません。第一、あなたより踊り歴の長い、 つまり先輩の踊り手があの中には何人もいるのですよ」と、そのことがあって暫らくして、某氏は衣裳を送り返して来た。止むを得ないことである。

私も言い過ぎたかも知れない。しかし、自らの社会的地位や、年令、性別を趣味の世界に持ち込む人は、もはや飛鳥の仲間ではない。

前項に関連して、飛鳥連の連員が守るべきマナーについて少し考えてみよう。

いろいろな人が集って行動するのだから、 ルールの様なものがなくては、規律ある組織とはいえない。

第一に、連長、副連長、リーダーといった幹部に敬意を持ち、指示に従うこと。後輩は先輩を敬愛し、先輩は後輩を親切に指導し、面倒をみなければいけない。

ここで大事なことは、幹部とか先輩といわれる人の言動である。一般連員や後輩に信頼され本当に敬意を持たれるような、同時に親しみを感じるような存在になるために、常に気を配る必要があると思う。

趣味の世界と、会社の如き組織との大きな違いは、人間性が試されるところにある。例えばサラリーマン社会では、人間性よりも肩書きや学歴がものを言うことが多い。

例え、いやな奴でも部下は上司に頭を下げるだろう。実質上の利害が伴なうからである。だが踊りの世界では、 いくらゴマをすったところで、実力のない者はいい場所では踊れないし、又、無能な幹部には連員はついて行くまい。いやな幹部が多ければ、連を去って行くたろう。だから幹部たるもの常に連員の「こころ」をつかむことを心掛けねばならない。

だからといって、甘くすることはよろしくない。練習、本番については厳しい態度で臨み、技倆の向上、耐久力の養成に勤めなければならない。いくら厳しくても、本当に皆の心をつかんでいる者の指導には、必ずついてくるはずだ。

第二に、社会通念上のエチケットを守ること。

挨拶、言葉づかい、思いやり、助け合い等の心掛け、 これらは人間が円満な付き合いをしてゆく上で、欠くことのできないものだと思う。

顔を会わせたら「今日は」、「お早ようございます」解散の時は「お疲れさま」と声を掛け合おう。

水呑場では、自分より他人に飲ませるような余裕が欲しい。先を争ってコップの奪い合いは、みにくいものだ。その場面ひとつで、 その連の評価が決まるといってもいい。

時たま見かけることだが、終点に先についた者が、すぐ水呑場へ走る。これはいけません、仲間がまだ踊っているのだから、最後の鳴物さんが終点へ人るまで、 その場で迎えよう。それが同志的連帯感を生み出すことにつながる。

ここまで書いて、 「はて」と考える。 「私自身へ反省すべきところはないか」と。

五十六年度のヒットは、何といっても「チビッ子飛鳥」の発足だろう。二十七人のメンバー、初年度としては出色の出来であった。

篠原氏の適切な指導のお蔭で、半分位の子供達は確かな踊りが出来るようになっている。後の半数も、多分今年は立派な踊りが出来るようになるだろう。大人でも子供でも器用な人、そうでない人の間には上達速度に違いがある。自分は下手だと思うなかれ、努力は必ず報われる。

昨年のチビッ子をみて、今年どうしても仲間に入れてくれと申込みがきている。多分今年は四十人位になると思うが、先輩は後輩の面倒をよくみて、 チームワークを大切にしよう。

チビッ子の中には、今年中学生になる者がいる。体が大きくなるから来年は、大人のグループに進むことになる。女子は、本来の、女子踊りになり、飛鳥連伝統の美しい女子踊りを継承していこう。

次代の飛鳥連を担うもの、それは、あなた方なのです。

小沢淳男、城石昇、小畑肇、 この三氏、高円寺パル商店街の大幹部である。

小沢氏はパルの理事長であると共に、阿波おどり振興協会会長として高円寺の大会を主宰する。

城石昇氏はパル副理事長。踊りの時は、パル地区委員長としてこまめに動き回る。本番中、随所で城石氏と出会う。青梅街道で、北口銀座通りで、中央演舞場で、何かホッとする頼もしさを感じるのは、私だけではあるまい。

小畑肇氏、同じくパルの副理事長である。大会では中央演舞場の主任をつとめる。その職務上、飛鳥連副連長でありながら、連の中へ入ることが許されない。ところが根っからの踊り好き。洋服のまま踊ったり、途中でハッピに着替えて、商店街通りだけ、いつの間にか飛鳥連へまぎれ込んでいたりする。次に出会う時は、又、洋服になっている。これ程までに踊りたい人を、連営委員にしておくのは罪というものだ。いつの日か、天下晴れて踊らせてあげたいものだ。

さて、私、連協会会長は連行委員長をつとめるという立場上、昨年から小畑さん同様、連につけなくなった。誠に面白くないのだが、他の連を冷静に見ることができるので勉強にはなる。

以上、私を含めて四人、揃って第一回からのメンバーである。

大会を主宰する人、それを助ける人、踊り手代表と立場は違っても、同じ苦労を経験して今日に至っている。この行事を大事にしなけれはと、掌中の玉のように育ててきた。いつかは、次の世代に渡すことになるが、いつまでも正しく伝承してもらいたいと願っている。

富沢武幸、塩沢久、村田利彦、日向幸夫、小畑聡の諸君。小学五年から鳴物一筋に歩んできた。今はこの五人が完全に揃うことは、少なくなったが、彼等が中心となった時の飛島連の鳴物は、実に快調である。永年つれ添った夫婦の如く、以心伝心乱れることがない。十一年経って彼等もすっかり一人前の青年になった。小畑君は、筑波大を今春卒業、大学院へ進むことになっているし、富沢君は、昨年から東海大大学院で史学の研究にはげんでいる。二人共に研究者としての道を歩もうとしている。

日向君、塩沢君は昨春大学を卒え、日向君は郵政省へ、塩沢君は建設業界の大手、前田建設へ就職している。 一浪した村田君は、今年、八千代信用金庫に決ったそうである。塩沢君「地方支社が多いので、多分地方勤務。そうなると踊りもできなくなるかも・・・」と云っていたが、幸い東京本社勤務。神楽坂に社員寮があった為に、神楽坂阿波おどりに「前田建設連」出場。彼、駆り出されてトップで踊る仕儀となる。

一方、八千代信用金庫に決った村田君、面接の時「高円寺に住んでいるようだが、阿波おどりやったことは・・・」と聞かれ、「十一年やってます」「ほほう・・・」それが決めてとなったかどうか、目出度く合格。

飛鳥育ちは、阿波おどりから離れられないようである。

日向君は、今年早くも結婚する予定だが、披露宴では、盛大に阿波おどりやって前途を祝福しようと皆で話し合っている次第。

富沢君、今年の役員顔合せの時、驚くべきものを持ち込んできた。鳴物担当者の成績表である。出場度数、技術度、その他いくつかの要素を数字で表し、総合信頼度を、偏差値の如く表した一覧表である。

これを作るには、日常の記録を克明につけ、又、技術を計る等、手間のかかる仕事あるが、研究熱心な彼にして初めてなしえたことと感心した。

これ以来、富沢武幸君の次期連長待望論が一挙に高まることになった。

私も大いに期待し、その日が一日も早く来ることを願っている。