第10章 10周年

昭和五十五年飛鳥連は結成十周年を迎えた。この記念すべき年に当たって何か特別な行事を企画することが、年初の役員会で決められた。私の構想は、一、連史の如きものをつくること。二、記念パレードを行うことであった。

連史については、かなり長期間の準備が必要なことと、執筆は多分今までの経緯から考えて私がやらねばならないが、時間の余裕がないので、これは保留することにし、記念パレードと祝賀パーティーに的をしぼることにした。

パレードには娯茶平の協力をお願いし、姉妹連合同の形をとること、これによって一般の関心を高め、更に時期が高円寺の大会の約一ヶ月前になる見通しだから、シーズン幕開きの役割を果たすことによって、ムード高揚を計ることが出来る、一石二鳥の好企画と考えた。

娯茶平が椿山荘へ来演する期間中の日曜日の午後実施するとの方針を立て、五月頃から四宮連長と連絡をとり、結局、七月二十七日にこれを行うことに決定した。

警察の許可は、城石昇氏にお願いし、当日の交通整理には、高円寺パル事業部の皆さんが当ってくれた。放送は、パル専属の高田アナに依頼した。前日の二十六日、私達は椿山荘へ出向き、娯茶平と最後の打合せをした。

娯茶平は、最高のメンバー二十一人を揃えて上京していた。唄の吉田光余さんも加わっている。吉田さんは、レコードやテープにも収録されている現代の徳島を代表する歌い手である。女子の中には堂久保さんの娘さんの顔もみえた。高円寺を配慮しての編成であろう。その夜、私は眠つかれなかった。

十年、長いようでもあり、短いようでもある。いろいろなことがあった。来る者もいれば去る者もいた。いまはいない人達の顔が浮んでは消える、お世話になった人、激励してくれた人、過ぎ去った日のあれこれか思い出され、 マンジリともしなかった。

朝七時、床を離れ私は机に向かった。パレードの後パーティーがある、私は連長として挨拶をせねばならぬ、どんな話をすべきか考えなければならない。

今日の飛鳥連を作ったのは、連員の努力もさることながら、周囲で声援を送ってくれたすべての方々のお蔭、特に娯茶平の心のこもった指導のお蔭、そして娯茶平と私達を結んでくれた堂久保哲男氏のお蔭である。「久保やん」に最大の謝辞を棒げねばならぬ。だが、その人は既にこの世の人ではない。

そう考えた時、突然に私の眼から涙が落ちた。誰もいない事務室の中で、私は暫し鳴咽した。久保やんの死が、今実感として迫ってきた。

今日のメンバーの中に、堂久保さんの娘さんかいる。父の愛した高円寺を、自分自身で確かめるために・・・、きっとそうに違いない。私の感謝の心を娘さんに受けていただこう。そう決めると、私は妙に晴ればれした気分になっていった。

十二時三十分、私達のパレードは、新高円寺商店街事務所前を出発した。「飛鳥連結成十周年パレード、協力娯茶平」と大書したプラカードを先頭に、娯茶平、飛鳥連の高張りが続き、飛鳥、娯茶平の順で並んだ。その時はよかったのだが、途中で混合編成に切り替えると、四宮氏が、「私と一緒に行こう」とのことで、二人並んで先頭に出る。正直いって、これには参った。何しろ「名人」と「駆け出し」である。見物人の中には、高円寺の有力連の幹部もいる。私の顔を見て、ニタッと笑う。照れることおびただしいたが連長たるもの、ここでヘタッてはなるまい

輪踊りでは私、他のメンバーと一緒にコミで踊ろうとしたところ、娯茶平の岡副連長に「連長はまだよ・・・」と声をかけられ、結局、最後にひとりで踊ることとなる。

「もう二十センチ低くなるといいんだがなあ・・・」と岡氏、かく私達は鍛えられていくのである。

商店街のスピーカーからは、吉田光余さんの「よしこの」が流れ、すばらしいムードをかもし出してくれた。

無我夢中の内に、無事パレードが終り、引続き根津会館でのパーティーに移る。

私は挨拶で、各関係者の方への謝辞を述べ、特に堂久保哲男氏との出会いにふれ、私の感謝の気持を、お父さんに代って娘さんに受けてくれるよう語った。娘さんが大きくうなづくのか見えて、私は肩の荷をおろしたように思った。

四宮連長は、「孫子の代までも、飛鳥連と娯茶平は仲よく、姉妹連としてやっていきましょう」そして記念品として徳島新聞社刊行の「阿波おどり」をいただき、固い握手を交わしたのであった。

この年の本番は、十周年という記念すべきとしでありながら、出場者数は最低を記録した。四十数名というのは、結成初年度と同じ位の数で、ここ数年六十名内外を維持してきた実績と比べて激減といってよかった。

この理由としては、翌年高校受験を控えた中三の子の多くがお休みしたことと、ここ数年は、公に新人募集を行わず自然加入のみに頼ってきたためと思われる。反面、技術面では向上し、いわゆる少数精鋭型になっていたのである。

八月二十六日昼、私が商店街事務所にいると、突然四宮連長が訪れた。

娯茶平からは二十七日に幹部数人が上京来演することになっていたから、私はびっくりした。

「いや、商用で昨日上京して今日はこれから大阪へ行くもので、ちょっとだけ寄らしてもらいました。明日、ウチの連中が来るはずだからよろしく・・・」とのことであった。

事務所で三十分程、お話したのだがその中で、

「私、来年からは徳島の阿波おどりに情緒を取り戻すために働くつもりです。今の徳島は、あまり観光中心になりすぎて、観光業者のための踊りみたいな気がする。原点に帰って民衆のものにするために、例えば裏通りへ踊りにいって、町の人が「よう来た!」って感じで、水でもサービスしてくれるような、心のふれ合うものにした、今のままでは、やがて・・・」そんな趣旨の事を熱っぽく話された。「その点、高円寺はいい・・・」とも言われた。

連長としての重責を担いながら、常に視野を全体に展げ、徳島阿波おどりの象徴に思いを至す四宮氏のこころは、私達も他山の石とせず、考えならねばならぬことだと思った。

その年の秋、四宮氏は連長を辞め顧問になられた。過日の四宮氏の言葉は、離任の挨拶であったと合点がいった。連長という繁忙な職を離れ、これからはもっと広く働きたいとの趣旨であったのだ。

後任の連長には岡秀昭氏が、そして連長代理に三木義孝氏が就任された。

岡連長は挨拶状の中で、「先輩の築いた道を基に、新たな趣向を加えて、私なりに一生懸命やるつもり・・・」と述べている。

岡氏の連長就任で、娯茶平は一挙に若返った感がある。事実、翌五十六年に徳島へ行った際、男子連員に高校生が多数加入していて、年代はグーンと低くなった印象を受けた。

従来タブーだった女子の男踊りも二〜三人いて(チビッ子出身で止むを得ずとのことたったが)若い息吹きを感じたものだ。

娯茶平の今後と、その中で果す岡連長の手腕に、私達は大きな期待をもっている。

五十六年一月、私は大役を引き受けることになった。高円寺の地元十六連で組織している連協会々長である。前任の中村和男氏は、数々の功績を残して五十五年九月に退任している。

私は、連協会の建て直しを第一義とし、規約の制定、役員の増員等、組織を近代化することから着手した。二年間の任期の内に、協会の基本路線を定め、誰がやっても誤まらぬような、発展的組織にしてゆきたいと考えるからである。

自分の本業と飛鳥連の運営で、もともと忙しいところへ、更に連協会の仕事もしなければならぬ破目になって、私は大いに悩んだ。

協会の仕事は、高円寺阿波おどりを健全な方向へリードする為にゆるがせにできないものだが、その為に飛鳥連の仕事か手薄になっては困るのだ。私は五人の副連長に、 一層の協力を要請すると共に、本年度の目標を連員の大増員におき、その為の具体的準備を進めることにした。自らに課題を背負わせることで、自分自身を奮い立たせねばならない。

連員募集は四十人を目標とし、その内二十乃至三十をチビッ子にすることとした。

かねてから話し合っていた「チビッ子飛鳥」を発足させようとの意図である。

もともと飛鳥連は、チビッ子連として誕生した連である。現在では完全な大人の連に成長し、平均年令は高円寺諸連の中でも高い方に属する。チビッ子は、三村記代佳ちゃんと達川純君の二人のみ、マスコット的存在ながら、近頃は本式の踊りをみせるようになっている。この二人を基に、 一挙に大勢のチビッ子グループをつくり、 一〜二年後には「チビッ子娯茶平」に負けないようなグループに育て上げよう。結成十一年目、初心に帰る意味もある。

デザインの専門家である篠原良隆氏にきれいなポスターをつくってもらい、三月から募集を始めた。五月には約十名の申込みがあり、六月から七月末にかけて合計二十七名の子供達が集った。 一方、中学生以上の加入も十名を数え、従前からの在籍者と合せて一挙に百名を越す大世帯になった。

チビッ子の衣裳は、娯茶平と全く同じとし、姉妹連ムードを倍加させた。チビッ子は篠原氏の担当とし、同氏の熱心な指導によって子供達は日一日と腕を上げていった。

連員がふえたことと、私の連協会々長としての立場上の理由が重なって、この年の飛鳥連は誠に精力的な活動を展開した。

記録によれば、何らかの形で飛鳥連の連員が参加した踊りは、実に二十二件、日数で二十七日にのぼる。これで一年三六五日を割ると、答は一三・五と出る。ほぼ二週間に一日の割合で動いた勘定になる。この中には数十名のフル動員もあれば、私ひとり参加というものもあるから、一般連員の認識としてはそれ程には感じていないと思う。たがベテラン幹部は殆どフル出場、私は皆勤だったから、家から追い出されないのが不思議な位であった。

やはり家全体の理解と協力がなければ出来ない事だと、店主不在の店を守ってくれた家族の者に感謝している次第。

これらの数多い出場の中で、最も印象に残り、又、高円寺以外の場でこれ程多数の参加者を得たのは、何といっても八月七日から三日間続いた「日本の祭り」である。連日、六十名が参加、又、いろは連から延二十人の応援をいただいた。徳島からは娯茶平がチビッ子十名を含む三十名が上京、東西の姉妹連が手を結んで祭りのフィナーレを飾ったのであった。

又、八月十三日から十五日までは連協会主催による徳島研修旅行が行われ、総勢八十名、飛鳥連からは十四名の参加をみた。現地では四宮氏に大変お世話になり、岡連長の御好意をいただいて、高円寺勢は娯茶平といっしょに各演舞場を踊ることが出来た。会長としての私の面目も立ち、 ありがたいことであった。

十二月十五日、ちょっとした出来事かあった。私ひとりのTV初体験である。今まで何回かのTV出演は経験していたが、いつも何人かの仲間といっしょだったから、 気楽にやっていたのだった。ところか今回はひとりだけ、 それも中年の男性という注文である。郵政省簡易保険局提供の「健康クイズ」という番組で、 その日は 「肩こり」がテーマである。

肩こりによい踊りが阿波おどりという設定だそうである。他に引き受け手がないので止むなく私ひとり出掛けた。長門裕之司会で、私の出番は二〜三分位、 スタジオへ着くまでは結構緊張していたが、リハーサルの頃には、さほどでなく何となくやってしまった。

一月十六日の放映を見ると、何やらマゴマゴした感じはあるにしても、 踊りそのものはまあまあの出来であった。          

随分と私も図々しくなったものである。

阿波おどりを始めて二十五年、飛鳥をやって十一年、私達が高円寺の阿波おどりを、そして飛鳥連を育て、その阿波おどりに私達自身が育てられていく。

その時その時には意識しなくても、いつかそれに思い当ることがある。何事によらずやるなら打ち込んでみよう。精いっぱい打ち込むことによって自信と、生きる張り合いが生まれるハズだ。

それが人をつくると私は思う。