第1章 結成前夜

昭和四十四年夏、高円寺阿波おどり初日の一コマを、私は忘れることが出来ない。

六時半の開始時刻か迫って、私は「のびゆく連」の集合場所へ向かっていた。その途中江戸浮連の集合地点を通りかかると、十数人の大人達とは少し離れたところに、 二人の女の踊り子がたたずんでいた。私を見かけると二人は、 おずおずと声をかけてきた。

「おじさん、 のびゆく連で踊らせて・・・」

笠の中をのぞくと、それは去年のびゆく連にいたA子とB子だった。「知らない人ばかりでつまらない・・・」、 二人共、江戸浮連の衣裳ですっかり大人びて見えたけれど、中学一年生である。

「うーん、中学以上は江戸浮連と決まっているんだ。二人いっしょだからいいんじゃないすぐなれるから・・・」と私。冷たいようだが、今それを云われても困るのだ。

参加申込書を基に、 十二才以下はのびゆく連、 十三才以上は江戸浮連に分け、 それぞれの名簿を連長が持っている。私の一存では、どうにもならないことだった。ほんの二分位の立話で、極くささいな出来事かもしれないけれど、 その時のA子とB子の哀しげな表情を忘れない。踊り子は将棋の駒ではない。それぞれの思いを持った人間だということを思い知らされた。

私は、商盛会役員として、連の区分け作業にも参画していたのだが、十二才から十三才になれば連が変るという機械的なやり方は、間違っていると気づいた。それでは毎年何人かの子供達が哀しい思いをするだろう、一年にたった二日の踊り、皆楽しく踊りたいのに空しい心で踊る子がいるのはたまらない。来年は何とかせねばならない。そんなことを考えながらその年の大会を終えた。

その翌年、私は、新連結成を図ることになるのだが、その目的のひとつは、子供達に安住の連を与えたいというところにあった。一方、当時の私は、商盛会の、のびゆく連に対する態度に少なからぬ不満をもっていた。

その頃の商盛会の連の状況は、天狗、葵新、花菱の独立三連、これに直営の江戸浮連とのびゆく連があって、独立三連は技術水準も高く、又江戸浮連は大人の連ということで、執行部の姿勢が、この四連に傾斜し、子供ばかりののびゆく連は、とかく半端物扱いされる傾向が強かった。鳴物担当も富沢君の締ダイコと私の鉦だけが専従で、大ダイコは、江戸浮連や事業所応援が優先、残りものが割当てられるといった具合。笛、三味線に至っては割当てなしという、 いささか冷たい扱いだった。こんな弱体な鳴物ではいくら子供でも可哀想だということで、私は富沢君と図って、のびゆく連で踊っていた富沢君の息子さん(武幸君)のグループ五人に鳴物を教え、小学五年生のチビッコ鳴物チームを登場させたりした。

一方、私の母が長唄をやっていて三味線がいけるので、母が師匠の高橋一先生を口説き落し、三味二丁を加えるという、いわば自給自足体制でのびゆく連盛り上げを図っていたのである。四十四年の大会が終ってから、執行部に、高橋一先生に若干の謝礼を出してくれるよう申し入れた。江戸浮連には、商店会が依頼した三味二丁が配されていて応分の謝礼をするのであるが、私の方にも同じようにしてくれと頼んだのである。

答は「ノー」であった。商店会が依頼した人では無いから、一般参加、自由参加とみるのが至当であり、それまで面倒はみられない、という。私は全く失望した。謝礼云々はどうでもよい。のびゆく連を一人前として認知していない、 そう感じとれる答に腹が立った。もう誰の世話にもならぬ、好きなようにさせてもらう。A子とB子の哀しげな表情が頭をよぎる。独立しよう、私はそう心に決めた。

翌四十五年本番間近か、私はのびゆく連独立を富沢君と話し合った。同意見だった。しかし二人だけでは弱いから谷幹男君を誘おう。彼は指導力かあるから連長になってもらおう、ということで仲間に入れた。早速、事務所の壁に「のびゆく連独立、連長谷、副連長富沢、関根、連員は本年のびゆく連参加者全員」と貼り出した。

私も若かった。必要にして充分な手順を経ず、 いささか猪突猛進、腹立ちまぎれといってもよかった。

その感情的発想は小林茂雄君等の冷静な抗議にあって、もろくも後退する破目になる。

「いっしょに始めからやってきた仲間じゃないですか。やるなら皆に相談してもいいでしよう。私だって所属不定でつまらない思いをしているんです。どうしても強行するなら、私の娘は出しません・・・」

実のところこれには参った。小林君は温厚な人柄で激しい言葉は使わなかったけれど腹に据えかねる思いが感じられた。

「判りました。白紙に戻します。しかし、新連結成の気持ちがあることだけは理解して下さい。 いずれ慎重に考えてやり直します。その時はよろしく・・・」あっさりと引下がった。云われる通りである。実際はともかく、 のびゆく連は一応商盛会直営連である。それを現場の私達か勝手に独立するというのは、穏やかでない。一種のクーデターと見られても仕方がない。私は自分のミスを認め頭を下げた。

こうして「のびゆく連独立」は、あえなく消え、その年の大会は従来通りの態勢で終ったのである。

そして九月から十月にかけて私は富沢君、谷君等と意見を交換しつつ此の度は慎重に本腰を入れて新連結成へ向かって準備を進めた。