序 章 高円寺阿波おどり小史

ーまえがきに替えてー

高円寺では、毎年八月二十六日から三日間盛大に阿波おどり大会が行われる。

その時期か近づくと、主催者側は勿論、これに参加する各連も当然のことのように、本番の準備を始める。その多忙さの故か、「なぜ、高円寺で阿波おどりが行われるようになったのか」「どうして、こんなに盛大になったのか」「高円寺にとって阿波おどりとは何なのか」そんなことを考えることもない。というよりも、今更それを云々する必要がない位、 阿波おどりが、高円寺に定着し、高円寺の郷土芸能になりきってしまったからかも知れない。

しかし、物事にはすべて起源がある、歴史がある。ある年突然に今日のような盛大をみた訳ではない。一年、一年の、ひとつ ひとつの汗と涙の積み重ねが、今日を成したのである。

高円寺で初めて阿波おどりが行われたのは、 昭和三十二年のことである。その年の八月初め、高南商盛会(現在のパル商店会)に青年部が結成され、 その記念行事の意味で、八月二十七日、 二十八日、氷川神社の祭礼の際、高円寺ばか踊りと称して、 現在のパルアーケード街(当時は青空商店街)の区域を踊ったのであった。あまりの恥ずかしさと、ばかばかしさの為、踊ったというよりは、駆け抜けたといった方が適切であった。記念行事に踊りを採り入れた事情や、練習、本番、又それに続く数年間の、いわゆる創成期の苦心談、 エピソード等については、私の前著「あわおとりー高円寺の十八年ー」に詳しく述べてあるので、ここでは省略するが、第一回目をやる時、評判がよければ、毎年やってみよう。ヒョットすると名物になるかも・・・。

その「ヒョットすると」が現実のものになって今や、東京名物、西の徳島、東の高円寺と云われるような大行事になってしまったのである。なぜだろうか、明快な答を出すのはむずかしい。ただ云える事は、高円寺には、この行事が育つ要素が、いくつかあって、そしてそれを活用し、育て、発展させていった大勢の人の情熱とバイタリティがあったということである。

最初の数年間、阿波おどりは、現在のパルアーケード街区域全長二五〇米だけが会場であった。五回目から南隣の新高円寺通り商店会が参加、会場の拡大をみ、更に、十年目から北口銀座商店会が参加したことによって一層の規模のひろがりをみることになった。その二年後には、氷川町会の協力を得て、駅前から青梅街道に至る幅員十八米の高南通りが、主演舞場となる。このような段階を経て、漸次規模が拡大し、一方、他地区商店街との交流も盛んになり、踊り参加者(連)もふえるという成長の仕方をしているのだが、もし「新高円寺」や「北口銀座」「氷川町会」が参加せず、或は別の行事を企画する等という方法をとっていたら、今日の隆盛はあり得ない。 一般的にいって他の街には、そのような状況が多くみられ、折角の企画が、足の引っ張り合いの為に消滅していくことが多いようである。その点、高円寺は指導者に人を得ていたように思う。伸びる可能性のある阿波おどりに、関係各会の人々が結集し、その発展の為に、情熱を注いで来たこと、更に、その成り立ちが商店街行事であったにもかかわらず、主催団体として、高円寺阿波おどり振興協会を設立、その中に、周辺全域の自治会を包含することによって、商店街色をなくし、地域住民の為の「新しい祭りの創造」を志してきたこと、又、踊りに参加する各連が、良い意味での競争意識をもって技術の向上に勤めてきたこと。

大ざっぱに云って、このような、いろいろな要素があって今日のような状況を生み出してきたと思う。大変、はしょった記述で恐縮だが、高円寺阿波おどりの全体的な発展過程は以上の通りであった。

さて、それでは実際に踊りを踊ったり、鳴物をたたいたりした現場の人々、それを組織した連の状況は如何と云うと、先ず前述した通り、この行事は高南商盛会青年部結成の記念行事であった関係上、 一年目、二年目は、約三十名の青年部員のみの参加であった。好むと好まざるとを問わず、青年部員の義務として全員これに出場したのである。踊りは民謡踊りの先生に指導を受け、鳴物はチンドン屋に依頼した。三年目頃から、商盛会内の有志を募り、子供、従業員等を含め、約五十名にふえた。勿論一連のみであった。昭和三十五年から三十七年にかけて、「踊り」そのものの見直しが行われた。それまでの踊りは、民謡踊りの先生指導による〇〇流振付けの阿波おどりであって、どうも本物とは違うようだと気づき、ある者は本場徳島へ見学に行き、又、県人会やら、徳島県東京事務所へ問合せるやら、在京の指導者探しが始まった。

その結果、深川の鴨川長二氏を探しあて、以後しばらくの間、同氏の主宰する木場連 (現天恵連)の指導を受けることになる。

青年部有志約十名、三回程、鴨川氏宅へ伺い、踊りと鳴物の手ほどきを受けた。高円寺にも来ていただき、何回か練習会を持った。うまく踊るということより基本をし「かり身につけなさいというのが鴨川氏の指導であった。私達に初めて本物を教えてくれた鴨川氏の御恩を忘れてはなるまい

昭和三十七年(第六回)には、木場連を招き、同連と地元連と二連編成で動くことになる。高円寺で複数の連が参加した初めての年である。

木場連の指導によって、青年部内に二つの鳴物チームが誕生したこともあって、翌三十八年には、地元二連、木場連、計三連、参加人員二〇〇人を数えた。この時の地元二連の連名は、「うずまき連」「きらく連」であり、その構成は、青年部員、商盛会内従業員、家族(主に子供)で、参加者を適当に二つに分割するという方法がとられていた。この方式は、四十一年頃まで続いていたように記憶する。このやり方の最大の問題点は、毎年、参加申込書による年令、性別で、二つの連が同じような構成になるように分割する関係上、本人の意志とは無関係に所属連が決められてしまうところにあった。当然の帰結として、 レギュラー出場する人達の間に不満が出始め、それが後、独立連結成の気運につながることになる。

独立連というのは、上部組織である商店会から独立し、気の合った仲間同士結束し、衣裳その他、すべて自分達の力でまかない、高円寺の大会では、当然実行委員会の翼下に入るものの、通常の行動は、誰からも管理されない、その意志をもった連のことを云うが、昭和四十二年に至って、「葵新連」「天狗連」という二つの独立連が誕生した。

高円寺阿波おどり二十五年の歴史の中で、この年は画期的な年である。その一つは、北口銀座商店会が参加したことによる規模の飛躍的な拡大、その二つは、独立連の誕生による技術の向上か約束された年としてである。

私は昭和三十二年から四十一年までの十年間を、高円寺阿波おどり創成期と称しているのだが、この期間中心的役割を果してきたのは、約三十名の商盛会青年部員である。その後十五年の間に、既に故人になられた方もあるし、移転等の為、去っていった方も多いから、現在、何らかの形で阿波おどりに関係している方は二十名位であろう。更にその中で、今尚、踊り、鳴物の現場をやっている者は十名前後と思われる。そして特筆すべきは、 その内五名までが、現在「飛鳥連」所属であること。小畑肇君、小林茂雄君、富沢義夫君、そして私が初回から、谷幹男君が四十年からの参加であって、このことは私達の「飛鳥連」が、大変に責任があることを示している。文字通り高円寺阿波おどりの発展と共に歩んできた私達は、この行事を、そして「飛鳥連」を正しい形で、次の世代に伝承していく義務を背負っていると思うのである。

勿論、創成期時代のこの五人は、それぞれ与えられた任務を、 それぞれの場で忠実に果していたに過ぎず、後年、五人一堂に会し新連結成を図ることになろうとは、予想もしないことであった。

昭和四十二年、葵新連、天狗連が誕生した結果、商盛会直営連は再編成せざるを得なくなった。葵新連は、外部参加者が大部分で、地元連からは極く少数が参加したに過ぎなかったが、神藤信一君、森田真由美さんというスターがこれに加わり、又、天狗連には、「きらく連」「うずまき連」の有志が多数参加した為に、商盛会直営連は、いっきょに弱体化したのである。 いろいろ検討した結果、小学生以下の子供だけをひとまとめにして「のびゆく連」を、その他の大人(中学生以上)をまとめて「江戸浮連」として再出発を図ることとなる。

一方、この頃から、金融機関等の事業所の参加もふえてきて、鳴物の応援を依頼される等、葵新連、天狗連へ加盟しなかった残存勢力は多忙を極めた。富沢君と私は「のびゆく連」の鳴物を担当することになったが、小林君や、谷君、小畑君は、ある年は江戸浮連へ、ある年は〇〇銀行出向を命ぜられるといった具合で、 この状態は四十五年まで続いた。

昭和四十三年には、江間忠雄君が「花菱連」を結成した。男ばかりで結成した気ッ風のいいグループであった。江戸浮連の何人かがこれに加わったと記憶する。多分この年だと思うが、谷幹男君がハッピ姿で花菱連の客分扱いで踊っていた。ところが、 これを見た家族の人が、「あんなみっともない姿で・・・、やめてくれ」と云ったそうで、それ以来、谷君は、本番で踊ることは止め、鳴物に専念することになる。当時、高円寺の連は「ゆかた」が全盛で、ハッピを揃えたのは花菱連だけだったから、家の人の目には、 異様に見えたのかも知れない。面白い話なので御紹介しておく。

この時期、商盛会関係以外の諸連の状況はと云えは、新高円寺商店会の「新高連」が徐々に力をつけつつあり、「菊水連」「ひょっとこ連」も多分発足していたと思う。北口銀座関係では「銀座連」が、商盛会関係者の指導を受けつつ修業中といったところであった。

昭和四十五年秋、いよいよ私達の「飛鳥連」が、結成された。当時の「のびゆく連」の年長グループ主体に約四十名で結成されたチビッ子連であった。それまでの独立連がすべて大人主体である中で、 チビッ子中心の編成は異色であったが、私には、 それなりの理由あってのことであった。

この年、北口銀座連は、 発展的解消し、新たに「江戸っ子連」「若駒連」を出発させた。その二年後には「いろは連」が結成される。

シルバー商店会の「志留波阿連」、緑ヶ丘町会の「みどり連」の誕生も多分この頃であろうと思う。

こうして高円寺の大会を彩る諸連が出揃い、 いよいよ各連競争の時代に入ることになる。

既に天狗連、葵新連が結成されて数年を経ている。両連共、着実に力をつけ、 「葵新連」は徳島葵連の傘下に入り、又、「天狗連」は徳島平和連の姉妹連として、対外活動を活発に展開していた、群を抜く存在であった。

だから、後発の諸連は、天狗、葵新を目標とし、追いつき追いこせを合言葉に、涙ぐましい努力を重ね、遂に今日では技倆の面でも、行動力の点でも、互角、あるいはそれ以上の力を持つに至っている。高円寺阿波おどり発展の為に牽引車の役割を果してきたこの二連の功績は、非常に大きいものがあったと云える。

高円寺阿波おどり諸連の活動は、毎年八月二十六日から二十八日迄の本番を目標として練習その他の準備を行うのだが、行動力ある有力連は、その他の出演活動も活発に行っている。他商店街からの依頼による他街出演、各種ステージ、 TV等、可能な範囲でこれに応じている。本来、 プロではないのだから、対外出演は控えるべきだとの声もあるし、自分達は、高円寺以外では踊らないと決めている連もある。しかし私は、対外活動も分に応じてこなすべきではないかと考えている。その理由は、①商店街相互の交流によって高円寺の大会に出場する他街の連がふえること。昭和五十六年(二十五周年) 参加連は、 四十六を数えるか、 その内他街からの来演は十二であり、この十二連の有無が、大会規模に大きく影響するからである。②踊り回数が多いことは、即、技術の向上に役立つこと。これは大事なことである。大会運営面での諸条件は、概ね完成されているけれども、各連の技倆は未だ充分でない。これからの課題は、いかに見ごたえある踊りをするかであり、その為には、数多い練習と本番を重ねるしか方法がないからだ。③ステージやTV等は、それが不健全なものでない限り、参加したい。演技力の向上に直接役立つだけでなく、それが、いろいろなチャンスを生み出すきっかけになることか多いからである。

過去数年間に、地元十六連で組識している連協会が扱った大きな舞台を拾ってみると、

全国郷土祭 於国立競技場

ワールドカッブ世界体操選手権大会 於国立代々木競技場

世界産婦人科学会 於普門館大ホール

消防百年全国大会 於後楽園球場

東京チビリンピック 於国立競技場

TBS開局30周年大会 於後楽園球場

都民ふれあいフェスティバル 於日比谷公園

国際航空協会総会 於高輪プリンスホテル

等々があり、中でも全国郷土祭では、天皇陛下御臨席、いわゆる天覧の栄に浴したのは忘れられぬ想い出である。その他、個々の連の場合をあげたらキリがない 。例えば私達の「飛鳥連」は、NHKホール、帝国ホテル、サンプラザホール等の舞台を踏んでいるし、「いろは連」は、国立劇場出場経験を持っている。又、海外遠征をした連もあるのである。

以上述べてきたように、高円寺の阿波おどりは、年々盛んになり、昭和五十六年、二十五周年を迎えた。長いようでもあり、短かかったようでもある。しかし、私、 二十六才独身で第一回に参加。今年は、五十才を越えて、娘は成人式を終えている。やはり長い道のりであった。 この間、私は同志と語らって、昭和四十五年秋「飛鳥連」を作った。それから十一年、さまざまな人が集まり そして去っていった。楽しい想い出、苦しい体験、 その一コマ一コマが脳裏をよぎる。以下、思い出すままに「飛鳥連」十一年の歩みを綴ってみたいと思う。